そして次の瞬間、私は決まって波に飲み込まれる。

 でもこの巨大な世界は私を拒否しているわけではないことを、私はもう知っている。離れて見れば──たとえばお姉ちゃんから見れば、私はこの輝く海に含まれている。だからふたたび、沖に向かってパドルしていく。何度もなんども繰り返す。そのうちに何も考えられなくなる。

 そしてその朝、私は波の上に立った。ウソみたいに唐突に、文句のつけようもなく完璧に。

 たった十七年でもそれを人生と言って良いのなら、私の人生はこの瞬間のためにあったんだ、と思った。

*  *  *

 この曲は知っている。モーツァルトのセレナードだ。中一の音楽会でクラス合奏したことがあって、私は鍵盤ハーモニカ担当だった。ホースみたいなのをくわえて息を吐きながら弾く楽器で、自分の力で音を出しているという感覚が好きだった。あの頃、私の世界にはまだ遠野くんはいなかった。サーフィンもやっていなかったし、今思えばシンプルな世界だったよなーと思う。

 セレナードは小さな夜の曲と書く。小さ夜よ曲きよく。小さな夜ってなんだろう、と私は思う。でも遠野くんと一緒の帰り道は、なんとなく小さな夜ってかんじがする。まるで私たちのために今日この曲がかかったみたい。なんかテンション上がる。遠野くん。今日こそは一緒に帰らなくちゃ。放課後は海に行かないで待ってようかなー。今日は六限目までしかないし、試験前だから部活動も短いだろうし。

     「……なえ」

 ん?

「花苗ってば、ねえ」

 サキちゃんが私に話しかけている。十二時五十五分。今は昼休みで、教室のスピーカーからは小さな音でクラシック音楽が流れていて、私はサキちゃんとユッコと三人でいつものようにお弁当を広げている。

「あ、ごめん。なんか言った?」

「ぼーっとするのはいいけどさ、あんたゴハン口に入れたまま動き止まってたわよ」とサキちゃんが言う。

「しかもなんかにこにこしてたよ」とユッコ。

 私は慌てて、口の中に入ったゆで卵を噛みはじめる。もぐもぐ。おいしい。ごくん。

「ごめんごめん。なんの話?」

「佐々木さんがまた男から告白されたって話だったんだけど」

「あー。うん、あの人キレイだもんねえ」と言って、私はアスパラのベーコン巻きを口に入れる。お母さんのお弁当は本当においしい。

「ていうかさ、花苗、なんか今日ずっと嬉しそうよね」とサキちゃん。

「うん。なんかちょっとコワイよ。遠野くんが見たらひくよ」とユッコ。

 今日はふたりの軽口もぜんぜん気にならない。そお? と私は受け流す。

「明らかにヘンだよねこの子」

「うん……。遠野くんとなんかあったの?」

 私は余裕の返答として、「ふふーん」と意味ありげににやついた。正確にはこれからなんかあるんだけどね。

「えぇ、ウソ!」

 ふたりは驚いて同時にハモる。そんなに驚くか。

 私だっていつまでも片想いのままじゃないのだ。波に乗れた今日、私はとうとう、彼に好きだと伝えるんだ。

 そう。波に乗れた今日言えなければ、この先も、きっと、ずっと言えない。

 午後四時四十分。私は渡り廊下の途中にある女子トイレで鏡に向かっている。六限目が三時半に終わってから、私は海には行かずにずっと図書館で過ごした。勉強なんかは当然できるはずもなく、頬杖をついて窓の外の景色を眺めていた。トイレの中の空気はしんとしている。いつのまにか髪が伸びたな、と鏡を見ながら思う。後ろ髪がすこし肩にかかっている。中学の時まではもっと長かったのだけれど、高校に入ってサーフィンを始めたことをきっかけにばっさりと髪を切った。お姉ちゃんが先生をやっている高校に入ったからという理由も、きっとあった。髪が長くて美人なお姉ちゃんと比べられるのが恥ずかしかった。でももうこのまま伸ばそうかなと、なんとなく思う。

 鏡に映った、日焼けして、頬を赤く上気させた私の顔。遠野くんの目に私はどう映っているのだろう。瞳の大きさ、眉の形、鼻の高さ、唇のつや。背の高さや髪質や胸の大きさ。おなじみのかすかな失望を感じながら、それでも私は自分のパーツ一つひとつをチェックするようにじっと見てみる。歯並びでも爪の形でも、なんでもいいから──と私は願う。私のどこかが彼の好みでありますように、と。

 午後五時三十分。単車置き場の奥、いつもの校舎裏に私は立っている。日差しはだいぶ西に傾いてきていて、校舎が落とす長い影が地面を光と影にぱっきりと二分している。私がいる場所はその境界、ぎりぎり影の中だ。空を見上げるとまだ明るく青いけれど、その青は昼間よりもすこしだけ色褪せて見える。さっきまで樹木に満ちていたクマゼミの声は静まり、今は足元の草むらからたくさんの虫の音が湧きあがっている。そしてその音に負けないくらい大きく、私の鼓動はどきんどきん鳴り続けている。体中をばたばたと血液が駆けめぐっているのが分かる。すこしでも気持ちを落ち着かせようと深呼吸するのだけれど、あまりにも緊張しすぎていて、私は時々息を吐くのを忘れてしまう。はっと気づいて大きく息を吐いて、そんな呼吸の不規則さに、鼓動は余計に激しくなる。──今日、言えなければ。今日、言わなければ。ほとんど無意識のうちに何度もなんども、壁から単車置き場を覗きこんでしまう。

 だから遠野くんから「澄田」と声をかけられた時も、感じたのは嬉しさよりも戸惑いと焦りだった。思わずきゃっと声が出そうになったのを必死に飲み込んだ。

「今帰り?」壁から覗きこんでいる私に気づいた遠野くんが、いつもの落ち着いた足取りで単車置き場から近づいてくる。私は悪事が見つかったような気持ちで単車置き場へと足を踏み出しながら、「うん」と返事をする。──そうか。じゃ、一緒に帰ろうよ。いつもの優しい声で、彼が言う。

 午後六時。コンビニのドリンク売り場に並んで立っている私たちを、西向きの窓からまっすぐに差し込んだ夕日が照らしている。いつもは暗くなってから来るコンビニだから、まるで違う店にいるような不安な気持ちになる。夕日の熱さを左頬に感じながら、小夜曲じゃなかったな、と私は思う。外はまだ明るい。私の今日の買い物は決まっている。遠野くんと同じデーリィコーヒー。迷いなくその紙パックを手に取った私に、遠野くんは驚いたように言う。あれ、澄田、今日はもう決まり? 私は彼の方を見ずに、うん、と返事をする。好きって言わなきゃ。家に着いてしまう前に。ずっと心臓が跳ねている。店内に流れているポップスが私の鼓動を消してくれていますようにと、願う。

 コンビニの外も、世界は夕日によって光と影に塗り分けられていた。自動ドアから出たところは光の中。コンビニの角を曲がって、単車が置いてある小さな駐車場は影の中だ。紙パックを片手に影の世界に入っていく遠野くんの背中を私は見ている。白いシャツに包まれた、私より広い背中。それを見ているだけで心がじんじんと痛む。強く強く焦がれる。歩いている彼までの四十センチくらいの距離が、ふいに五センチくらい余分に離れる。突然激しい寂しさが湧きあがる。待って。と思い、とっさに手を伸ばしてシャツの裾をつかんだ。しまった。でも、今、好きだと言うんだ。

 彼が立ち止まる。たっぷりと時間をおいて、ゆっくりと私を振り返る。──ここじゃない、という彼の言葉が聞こえたような気がして、私はぞくっとする。

「──どうしたの?」

 私の中のずっと深い場所が、もう一度、ぞくっと震えた。ただただ静かで、優しくて、冷たい声。思わず彼の顔をじっと見つめてしまう。にこりともしていない顔。ものすごく強い意志に満ちた、静かな目。

 結局、何も、言えるわけがなかった。

 何も言うなという、強い拒絶だった。

*  *  *

 キチキチキチ……というヒグラシの鳴き声が島中の大気に反響している。ずっと遠くの林からは、夜を迎える準備をしている鳥たちの甲高い声が小さく聞こえる。太陽はまだぎりぎり沈んでいなくて、帰り道の私たちを複雑な紫色に染めている。

 私と遠野くんは、サトウキビとカライモ畑に挟まれた細い道を歩いている。さっきから、私たちはずっと無言だ。規則的なふたりぶんの硬い靴音。私と彼との間は一歩半ぶんくらい離れていて、離れないように近づきすぎないように私は必死だ。彼の歩幅が広い。もしかして怒っているのかもしれないと思ってちらりと顔を見たけれど、いつもの表情でただ空を見ているように見える。私は顔を伏せ、自分の足がアスファルトに落とす影を見つめる。コンビニに置いてきたバイクのことをちらっと思い出す。捨ててきたわけじゃないのに、自分が残酷なことをしてしまったような後悔に似た気持ちがある。

 好きという言葉を飲み込んだ後、まるで私の気持ちに連動するみたいに、カブのエンジンがかからなくなってしまった。スターターを押してもキックでかけようとしても、うんともすんとも言わない。コンビニの駐車場でバイクにまたがったまま焦る私に遠野くんはやっぱり優しく、私はさっきの彼の冷たい顔がまるでウソみたいに思えて、なんだか混乱してしまう。

「たぶん、スパークプラグの寿命なんじゃないのかな」と、私のカブを一通り触った後に遠野くんは言った。「これお下がり?」

「うん、お姉ちゃんの」

「加速で息継ぎしてなかった?」

「してたかも……」そういえばここ最近、時々エンジンがかかりにくいことがあった。

「今日はここに置かせてもらって、後で家の人に取りに来てもらいなよ。今日は歩こう」

「えぇ! あたしひとりで歩くよ! 遠野くんは先帰って」私は焦って言う。迷惑なんてかけたくない。それなのに、彼は優しく言う。

「ここまでくれば近いから。それにちょっと、歩きたいんだ」

 私はわけも分からず泣きたい気持ちになる。ベンチに二つ並んだデーリィコーヒーの紙パックを見る。彼の拒絶と感じたのは私の勘違いだったんじゃないかと一瞬思う。でも。

 勘違いなわけない。

 なぜ私たちはずっと黙って歩き続けているのだろう。一緒に帰ろうと言ってくれるのはいつも遠野くんからなのに。なぜあなたは何も言わないんだろう。なぜあなたはいつも優しいのだろう。なぜあなたが私の前に現れたのだろう。なぜ私はこんなにもあなたが好きなのだろう。なぜ。なぜ。

 夕日にキラキラしているアスファルト、そこを必死に歩く私の足元がだんだんと滲んでくる。──お願い。遠野くん、お願い。もう私は我慢することができない。だめ。涙が両目からこぼれ落ちる。両手でぬぐってもぬぐっても涙が溢れる。彼に気づかれる前に泣きやまなくちゃ。私は必死に嗚咽を抑える。でも、きっと彼は気づく。そして優しい言葉をかける。ほら。

「……澄田! どうしたの!?」

 ごめん。きっとあなたは悪くないのに。私はなんとか言葉をつなごうとする。

「ごめん……なんでもないの。ごめんね……」

 立ち止まって、顔を伏せて、私は泣き続けてしまう。もう止めることができない。澄田、という遠野くんの悲しげな呟きが聞こえる。今まででいちばん、感情のこもった彼の言葉。それが悲しい響きだということが、私にはとても悲しい。ヒグラシの声はさっきよりずっと大きく大気を満たしている。私の心が叫んでいる。遠野くん。遠野くん。お願いだから、どうか。もう。

 ──優しくしないで。

 その瞬間、ヒグラシの鳴き声がまるで潮が引くみたいに、すっと止んだ。島中が静寂に包まれたように、私は感じた。

 そして次の瞬間、轟音に大気が震えた。驚いて顔を上げた私の滲んだ視界に、遠くの丘から持ち上がる火球が見えた。

 それは打ち上げられたロケットだった。噴射口からの光が眩しく視界を覆い、それは上昇を始めた。島全体の空気を震わせながら、ロケットの炎は夕暮れの雲を太陽よりも明るく光らせ、まっすぐに昇っていく。その光に続いて白い煙の塔がどこまでも立ち上がっていく。巨大な煙の塔に夕日が遮られ、空が光と影とに大きく塗り分けられてゆく。どこまでもどこまでも光と塔は伸びていく。それは遙か上空までまんべんなく大気の粒子を振動させ、まるで切り裂かれた空の悲鳴のように、残響が細く長くたなびく。

 ロケットが雲間に消えて見えなくなるまで、たぶん、数十秒ほどの出来事だったのだと思う。

 でも私と遠野くんは一言も発せずに、そびえ立った煙の巨塔がすっかり風に溶けてしまうまで、いつまでも立ちつくしてずっと空を見つめていた。やがてゆっくりと鳥と虫と風の音が戻ってきて、気がつけば夕日は地平線の向こうに沈んでいる。空の青は上の方からだんだんと濃さを増し、星がすこしずつ瞬きだして、肌の感じる温度がすこしだけ下がる。そして私は突然に、はっきりと気づく。

 私たちは同じ空を見ながら、別々のものを見ているということに。遠野くんは私を見てなんかいないんだということに。

 遠野くんは優しいけれど。とても優くていつも隣を歩いてくれているけれど、遠野くんはいつも私のずっと向こう、もっとずっと遠くの何かを見ている。私が遠野くんに望むことはきっと叶わない。まるで超能力者みたいに今ははっきりと分かる。私たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かる。

*  *  *

 帰り道の夜空にはまんまるいお月さまがかかっていて、風に流れる雲をまるで昼間のようにくっきりと、青白く照らし出していた。アスファルトには私と彼のふたりぶんの影が黒々と落ちている。見上げると電線が満月の真ん中を横切っていて、なんだかまるで今日という日のようだ、と私は思う。波に乗れる前の私と、乗れた後の私。遠野くんの心を知る前の私と、知った後の私。昨日と明日では、私の世界はもう決して同じではない。私は明日から、今までとは別の世界で生きていく。それでも。

 それでも、と私は思う。電気を消した部屋の中で布団にくるまりながら。暗闇の中で、部屋に差し込んだ水たまりみたいな月明かりを見つめながら。ふたたび溢れはじめた涙が、月の光をじんわりと滲ませはじめる。涙は次から次へと湧きつづけて、私は声を立てて泣きはじめる。涙も鼻水も盛大にたらして、もう我慢なんかせずに、思い切り大きな声を上げて。

 それでも。

 それでも、明日も明後日もその先も、私は遠野くんが好き。やっぱりどうしようもなく、遠野くんのことが好き。遠野くん、遠野くん。私はあなたが好き。

 遠野くんのことだけを思いながら、泣きながら、私は眠った。

第三話「秒速5センチメートル」

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