水平線のちょっと上に乗っかっている朝日が、周囲の水面を眩しく輝かせている。空は文句のつけようもなくぱっきりと青く、肌に感じる水はあたたかく、体はとても軽い。私は今、ひとりだけで光の海に浮かんでいる。こんな時は自分がまるでとても特別な存在みたいに思えて、いつもほんのりと幸せな気持ちになってしまう。今現在、たくさんの問題を抱えているにもかかわらず。

 そもそもこんなふうに脳天気に、すぐに幸せだなーとか思ってしまうことが諸問題の原因なのかもしれないと考えながら、それでも私はうきうきと次の波に向かって腕を漕ぎだす。朝の海ってなんて綺麗なんだろう。徐々にせり上がる波のなめらかな動き、言葉では説明できない複雑な色合い。それにうっとりと見とれながら、私は自分の体を乗せたボードを波のフェイスに滑り込ませようとする。体が持ち上げられる浮力を感じ体を起こそうとした直後、しかし私はバランスを崩して波の下に沈み込んでしまう。また失敗。鼻からすこしだけ吸い込んでしまった海水で、目の奥がつんとする。

 問題その一。私はこの半年間、一度も波の上に立てていない。

 砂浜から一段上がったところにある駐車場(というか雑草の茂った単なる広場)の奥、背の高い雑草の影で、私は肌にぴったりとしたラッシュガードを脱ぎ水着を脱ぎ、裸になってホースの水道水を頭からかぶり、さっと体を拭いて制服に着替える。周囲には誰もいない。ほてった体にあたる強い海風が気持ちいい。肩に届かないくらいの私の短い髪はあっという間に乾いてしまう。白いセーラーの上着に、朝日が雑草の影をくっきりと映している。海はいつでも大好きだけれど、この季節の朝はほんとうに特別に好き。これが冬だったら、海から上がって着替えるこの瞬間がいちばん辛いのだ。

 乾いた唇にリップクリームを塗っている時にお姉ちゃんのステップワゴンがやってくる音が聞こえて、私はサーフボードとスポーツバッグを抱えて車に向かう。赤いジャージ姿のお姉ちゃんが運転席の窓を開けて私に話しかける。

「花か苗なえ、どうだった?」

 私のお姉ちゃんは綺麗だ。髪がまっすぐに長くて、落ち着いていて、頭が良くて、高校の先生をやっている。八歳上の姉のことを、しかし昔はあまり好きではなかった。理由を自分なりに内省・分析するに、どちらかといえばぼんやりとした平凡な私にとって、華やかな姉は要するにコンプレックスの対象だったのだと思う。でも今は好き。お姉ちゃんが大学を卒業してこの島に帰ってきた頃に、私はいつの間にか素直に姉を尊敬できるようになっていた。ダサいジャージなんか着ないで、もっと可愛い服を着ればもっともっと美人に見えるのに。でもあんまり綺麗すぎると、この小さな島では目立ちすぎちゃうのかもしれない。

「今日もダメ。風はずっとオフショアだったんだけど」サーフボードをトランクにしまいながら私は答える。

「まあゆっくりやんなさい。放課後も来るの?」

「うん、来たい。お姉ちゃんは平気?」

「いいよ。でも勉強もちゃんとやんなさいよ」

「はーい!」

 誤魔化すように大きく返事をしつつ、私は駐車場の隅に停めてあるバイクに向かう。学校指定のホンダのスーパーカブは年季の入ったお姉ちゃんからのお下がりだ。電車がなくバスもほとんど走らないこの島では、高校生はたいてい十六歳になってすぐバイクの免許を取る。バイクは便利だし島を走るのは気持ちいいけれど、でもサーフボードは運べないから、海に行く時はいつもお姉ちゃんが車を出してくれる。私たちはこれからそろって登校するのだ。私は授業を受けるために、お姉ちゃんは授業を行うために。エンジンのキーを回す時に腕時計を確認する。七時四十五分。うん、大丈夫。きっと彼はまだ練習中だ。私は姉の車に続いてカブを走らせ、海岸を後にする。

 お姉ちゃんの影響でボディボードを始めたのが高校一年生の時、最初の一日で私はすっかりサーフィンの魅力にとりつかれてしまった。大学でサーフィン部だった姉のサーフィンはちっともファッショナブルではなくバリバリの体育会系だったけれど(最初の三ヵ月はひたすら沖に出るための基礎練習だった。日が暮れるまでパドリング! ドルフィンスルー!)、海というとてつもなく巨大なものに向かっていくという行為を、理由は分からないけれどとても美しいと思った。そしてボディボードにもずいぶん慣れた高二の夏のある晴れた日、私は今度は波に立ちたいと突然に思った。そのためにはショートボードかロングボードに乗る必要があり、ミーハーな私はサーフィンといえばやっぱりショートでしょうということで転向し、そして習い始めの頃こそは何回か偶然に波に立てたこともあったのだけれど、それ以降なぜかぷっつりと立てないままでいる。難しいショートボードは投げ出してボディボードに戻ろうかとも思いつつ、それでも一度決めたことなのだからとぐずぐずと迷い、そんなふうにしているうちに私は高校三年になり、あっという間に夏になってしまった。ショートボードで波に乗れない。これが私の悩みの一つ。そして二つめの悩みに、私はこれからアタックする。

 パン! という気持ちの良い音が、朝の鳥のさえずりに混じって小さく聞こえてくる。ぴんと張られた紙の的まとを矢が貫く音。今は八時十分、私は校舎の陰に緊張して立っている。さっき校舎の端からすこしだけ顔を出して覗いてみたところ、弓道場にはいつも通り彼ひとりしかいなかった。

 彼は毎朝ひとりで弓道の練習をしていて、私が朝からサーフィンの練習をする一因も実は彼にある。彼が朝から何かに熱中しているなら、私も何かに熱中していたい。彼が真剣に弓を引いている姿は、それはそれは素敵なのだ。とはいえ近くでじっと見つめることは恥ずかしくてできないから、今みたいに百メートルくらい離れた場所からしか練習姿は見たことはないけれど。そのうえ盗み見だけれど。

 私はなんとなくスカートをぱたぱたと払い、セーラーの裾を軽くひっぱって整えてから、深呼吸をした。よし! 自然にいくよ、自然に。そして弓道場に向かって足を踏み出す。

「あ、おはよう」

 いつも通り、彼は近づいてくる私を見つけると練習を中断し、声をかけてきてくれた。きゃー、もう、やっぱり優しい。落ち着いた深い声。

 私はどきどきしながら、それでも平静を装ってゆっくりと歩く。私はただ弓道場の脇を通りかかっただけなのよ、というふうに。そして慎重に返事をする。声が裏返ったりしないように。

「おはよう遠野くん。今朝も早いね」

「澄田も。海、行ってきたんだろ?」

「うん」

「がんばるんだね」

「えっ」思いがけず褒められて私はびっくりする。やばい、きっと私いま耳まで赤くなってる。

「そ、そんなにでも……。えへへ、じゃ、またね遠野くん!」嬉しさと恥ずかしさで、慌てて私は駆けだしてしまう。「ああ、またな」という優しい声が背中に聞こえる。

 問題その二。私は彼に片想いをしている。実にもう五年間も。名を遠野貴たか樹きくんという。そして遠野くんと一緒に過ごせる時間は、高校卒業までのあと半年しかない。

 そして問題その三。それは机の上にあるこの紙切れ一枚に集約されている。現在八時三十五分、朝のホームルーム中だ。担任の松野先生の声がぼんやりと聞こえてくる。ええかー、そろそろ決める時期やぞ。ご家族とよう相談して書いてくるように。とかなんとか。その紙切れには「第3回進路希望調査」と書いてある。これに何を書き込めばよいのか、私は途方に暮れる。

 十二時五十分。昼休み中の教室には、いつかどこかで聞いたことのあるクラシックが流れている。なぜかこの曲を聴くと、私はスケートをしているペンギンを思い出してしまう。いったいこの曲は私のアタマの中でなんの思い出と結びついてるんだろう? 曲名はなんだっけと私は考え、思い出すことをすぐに諦めてお母さんの作ってくれたお弁当の卵焼きを食べる。甘くておいしい。味覚を中心にして幸せだなーという気持ちがじんわりと広がってくる。私はユッコとサキちゃんの三人で机を寄せあって昼ご飯を食べていて、ふたりはさっきからずっと進路について話している。

「佐々木さん、東京の大学受けるらしいよ」

「佐々木さんってキョウコのこと?」

「違う違う、一組の」

「ああ、文芸部の佐々木さんね。さすがだなー」

 一組と聞いて、私はちょっと緊張する。遠野くんのクラスだ。私の高校は一学年三クラスで、一組と二組が普通科、その中でも一組は進学を希望する人たちが集まっている。三組は商業科で、卒業後は専門学校に行くか就職する人が多く、島に残る人もいちばん多い。私は三組だ。まだ訊いたことはないけれど、遠野くんはたぶん大学に進学するのだと思う。彼は東京に戻りたいんじゃないかとなんとなく感じる。そんなふうに考えると、卵焼きの味が急に消えてしまったような気がする。

「花苗は?」ふいにユッコに訊かれ、私は言葉に詰まってしまう。

「就職だっけ?」とサキちゃんが続けて訊く。うーん……と言葉を濁してしまう。分からないのだ、自分でも。

「あんたホントなんも考えてないよね」と、呆れたようにサキちゃんが言う。「遠野くんのことだけね」とユッコ。「あいつゼッタイ東京に彼女いるよ」とサキちゃん。私は思わず本気で叫んでしまう。

「そんなぁ!」

 ふふっ、とふたりが笑う。私の秘めたる想いは彼女たちにはバレバレなのだ。

「いいよもう。購買でヨーグルッペ買ってくる」とふくれたように言って、私は席を立つ。冗談めかしてはいるけれど、遠野貴樹東京彼女説は私には結構こたえるのだ。

「え! あんたまた飲むの!? 二つめじゃん」

「なんかノド乾くんだもん」

「さっすがサーフィン少女」

 ふたりの軽口を受け流し、風が吹き込む廊下をひとりで歩きながら、私は壁にいくつも並んだ額縁になんとなく目をやる。発射台から打ち上がる瞬間の、盛大に煙を噴いているロケットの写真だ。〈H2ロケット4号機打ち上げ 平成8年8月17日10時53分〉、〈H2ロケット6号機打ち上げ 平成9年11月28日6時27分〉……。打ち上げが成功するたびに、NASDAの人がやってきて勝手に額縁を置いていくという噂だ。

 打ち上げは私も何度も見ている。白い煙を引いてどこまでも昇ってゆくロケットは、島のどこにいてもはっきりと見える。そういえばここ何年かは打ち上げを見ていない気がする。この島に来てまだ五年の遠野くんは、打ち上げを見たことがあるのだろうか。いつか一緒に見れたらいいな。初めてだとしたらちょっと感動する眺めだと思うし、ふたりだけでそんな体験ができたら、私たちの距離もちょっとは縮まるような気がする。ああ、でも高校生活はあと半年しかないのだし、その間に打ち上げはあるのだろうか。そうだ。そもそも私はそれまでに本当に波に乗れるようになるのだろうか。いつか私のサーフィンを遠野くんに見て欲しいけれど、カッコ悪い姿は絶対に見られたくないし、彼にはいつでも私のいちばん良いところだけを見ていて欲しいと思う。──あと半年。いやいや、でもひょっとして遠野くんが卒業後も島に残るという可能性だってゼロじゃない。だとしたらチャンスはまだいくらでもあるんだわ、そしたら私の進路も島内就職で決まりだ。とはいえ彼のそういう姿は想像できないんだよなー、なんとなく島が似合わないもん、あの人。うーん。

 ……こんなふうに、私の悩みは遠野くんを中心にいつもぐるぐると巡ってしまう。いつまでも悩み続けているわけにはいかないんだということだけは分かっているのに。

 だから私は、波に乗れたら遠野くんに告白すると、決めているのだ。

*  *  *

 午後七時十分。さっきまで大気中を満たしていたクマゼミの声が、いつのまにかヒグラシの声に変わっている。もうすこししたら今度はキリギリスの声に変わるだろう。あたりはもう薄暗いけれど、空にはまだ夕日の光が残っていて高い雲が金色に輝いている。じっと空を見上げていると、雲が西に流れているのが分かる。さっきまで海にいた時には風は逆向きでオンショア──沖から吹く風で波の形は良くない──だったのに、今ならもっと乗りやすい波になっているかもしれない。どちらにせよ立てる自信はないのだけれど。

 校舎の陰から単車置き場の方を覗く。バイクはもう残りすくなく、校門付近には生徒の姿もない。もうどの部活も終わっている時間なのだ。私はつまり、放課後サーフィンをしてきた後にふたたび学校に戻ってきて、遠野くんが単車置き場に現れるのを校舎陰に隠れて待っているのだけれど(というふうにあらためて考えると我ながらちょっとコワイ)、もしかしたら今日はもう帰ってしまったのかもしれない。もうちょっと早く海から上がれば良かったかなあと思いつつ、あとすこしだけ待ってみようと思いなおす。

 サーフィン問題、遠野くん問題、進路問題、これが目下の私の三大課題なわけだけれど、もちろん問題はこの三つだけではない。たとえば日に焼けた肌。私は決して地黒なわけではないのだけれど(たぶん)、どれだけ日焼け止めを塗り込んでも、私は同級生の誰よりもダントツにこんがりと日焼けしている。お姉ちゃんはサーフィンをやっているのだからあたりまえだと言うし、ユッコやサキちゃんも健康的で可愛いんじゃないのとか言ってくれるけれど、好きな男の子よりも色が黒いというのは何かが致命的な気がする。遠野くんの肌、色白できれいだし。

 それからいまいち成長してくれない胸とか(お姉ちゃんの胸はなぜかでかい。同じDNAなのになんでだ)、壊滅的な数学の成績とか、私服のセンスのなさとか、あまりにも健康すぎてぜんぜん風邪をひけないとか(可愛げが足りない気がする)、その他いろいろ。問題山積みなのだ、我ながら。

 悲劇的要素をカウントしていてもどうしようもないのだわと思い、もう一度ちらりと単車置き場を覗く。遠くから見間違えようのないシルエットが歩いてくるのが見える。やった! 待ってて正解だった、私ってばサスガの判断。素早く深呼吸して、さりげなく単車置き場に向かう。

「あれ、澄田。今帰り?」やっぱり優しい声。単車置き場の電灯に照らされて、だんだん彼の姿が見えてくる。すらりとした細身の体、すこし目にかかる長めの髪、いつもの落ち着いた足取り。

「うん……。遠野くんも?」声がちょっと震えているような気がする。あーもう、いいかげん慣れて欲しい私。

「ああ。じゃあさ、一緒に帰らない?」

 ──もし自分に犬みたいな尻尾があったら、きっとぶんぶんと振ってしまっていたと思う。ああ、私は犬じゃなくて良かった、尻尾があったら全部の気持ちが彼に筒抜けだったと真剣に思って、そんなことしか考えられない自分に呆れて、それでも、遠野くんとの帰り道はひたすらに幸せなのだ。

 私たちはサトウキビ畑に挟まれた細い道を一列に並んで単車で走っている。前を走っている遠野くんの後ろ姿を見ながら、私はしみじみとその幸せを噛みしめる。胸の奥が熱くて、サーフィンに失敗した時のように鼻の奥がすこしツンとする。幸せと悲しみは似ていると、理由も分からずに思う。

 最初から、遠野くんは他の男の子たちとは、どこかすこし違っていた。中学二年の春に彼は東京からこの種子島に転校してきた。中二の始業式の日の彼の姿を、今でもはっきりと覚えている。黒板の前にまっすぐに立った見知らぬ男の子はぜんぜん気後れも緊張もしていないように見えて、端正な顔に穏やかな微笑を浮かべていた。

「遠野貴樹です。親の仕事の都合で三日前に東京から引っ越してきました。転校には慣れていますが、この島にはまだ慣れていません。よろしくお願いします」

 喋る声は早くもなく遅くもなく淀みもなく落ち着いていて、しびれてしまうくらいきれいな標準語のアクセントだった。テレビの人みたいだった。私がもし彼の立場だったら──超大都会から超田舎(かつ孤島)に転校してきたら、あるいはその逆だったならば──きっと顔は真っ赤でアタマはまっ白、皆とは違うアクセントが気になってしどろもどろになっていたに違いない。それなのに同い年であるはずのこの人はどうしてこんなふうに、まるで目の前に誰もいないかのように緊張もせず、くっきりと喋ることができるのだろう。今までどんな生活をしてきて、黒い学生服に包まれたこの人の中にはいったい何があるのだろう──。これほど強く何かを知りたいと求めたことは人生で初めてで、私はもうその瞬間に、宿命的に恋に落ちていた。

 それから私の人生は変わった。町も学校も現実も、彼の向こう側に見えた。授業中も放課後も海で犬の散歩をしている時でさえも、視界の隅っこでいつも彼を捜していた。一見クールで気取っているようにも見えた彼は実は気さくですぐにたくさんの友人を作り、しかも同性ばかりでかたまるようなガキっぽさは微塵もなく、だから私もタイミングさえ合えば何度でも彼と話すことができた。

 高校ではクラスこそ違ってしまったけれど、学校が同じなのは奇跡だった。とはいえこの島にはそれほどの選択肢はないし、彼の成績であればどの高校に行こうが進路は思いのままだったろうから、単に近くの学校を選んだだけなのかもしれないけれど。高校でも相変わらず私は彼のことが好きで、その気持ちは五年間まったく衰えることはなくむしろ日々すこしずつ強くなっていった。彼の特別なひとりになりたいという気持ちはもちろんあったけれど、でも正直、私は好きという気持ちを抱えているだけでもう精一杯だった。彼と付きあったその後の日々なんて一ミリも想像できなかった。学校であるいは町で、遠野くんの姿を見かけるたびに私は彼をもっと好きになっていってしまって、それが怖くて毎日が苦しくてでもそれが楽しくもあり、自分でもどうしようもないのだった。

 夜七時三十分。帰り道にあるアイショップというコンビニで、私たちは買い物をする。遠野くんとは週に〇・七回くらい──つまり運の良い時は週に一回、運のない時は二週に一回くらいの割合で一緒に帰ることができるのだけれど、いつからかアイショップへの寄り道が定番のコースになった。コンビニといっても夜九時には閉まるし花の種とか近所のおばちゃんの作った土の付いた大根なんかも売っているようなお店なのだけれど、お菓子類の品揃えもなかなか充実している。有線放送では流行のJポップなんかがかかっている。天井にずらっと並んだ蛍光灯が、狭い店内を白っぽい光でこうこうと照らしている。

 遠野くんが買うものはいつも決まっていて、デーリィコーヒーの紙パックを迷いなく選ぶ。私はいつも何を買うべきか迷ってしまう。つまり、どんなものを買えば可愛いと思われるのかという問題。彼と同じコーヒーじゃなんだか狙ってるみたいだし(実際狙ってるんだけど)、牛乳はちょっとガサツな気がするし、デーリィフルーツは黄色いパックが可愛いけれど味がちょっと好きじゃないし、デーリィ黒酢は本当は飲んでみたいけれどなんかワイルドすぎるし。

 そんなふうに私がぐずぐずと迷っているうちに、「澄田、先行ってるよ」と言って遠野くんはレジに向かって行ってしまった。ああもう、せっかく隣にいたのに。私は慌てて、結局いつものデーリィヨーグルッペにしてしまう。今日これで何個目だっけ? 二時間目の後に購買で一個買って飲み、昼休みに二個飲んだから、これで四個目だ。私の体の二十分の一くらいはヨーグルッペでできてるんじゃないかと思ってしまう。

 コンビニを出て角を曲がると、遠野くんが単車に寄りかかって携帯メールを打っている姿が見えて、私は思わずポストの陰に隠れてしまった。空はもう暗い濃紺で、風に流されている雲だけがまだかすかに赤く夕日の名残を映している。もうすぐ島は完全な夜になる。サトウキビの揺れる音と虫の音であたりは満ちている。どこかの家の夕食の匂いがする。暗くて彼の表情は見えない。携帯の液晶画面だけがくっきりと明るい。

 私はつとめて明るい表情を作り、彼の方に歩いていく。私に気づいた彼はとても自然に携帯をポケットにしまい、「おかえり澄田。何買ったの?」と優しく話しかけてくれる。

「うん、迷ったんだけど結局ヨーグルッペ。実は今日これで四個目なんだ。すごいでしょ」

「え、うそ。そんなに好きなの? そういえば澄田いつもそれだよね」

 会話をしながら、私の意識は背負ったスポーツバッグに入っている自分の携帯電話に向かってしまう。遠野くんのメールの相手が私だったらいいのにと、もう何千回も願ったことをまた考えてしまう。でも彼のメールが私に届いたことはない。だから私も彼にメールは出せない。私は──と強く思う。せめて私だけは、この先の人生でどんな人とデートすることになろうとも、その人と一緒にいる時間は全力で相手のことだけを見ていよう。携帯なんか絶対に見ないようにしよう。この人は自分じゃない他の誰かのことを考えているなんていう不安を、相手に与えない人間になろう。

 星の輝きはじめた夜空の下で、どうしようもなく好きな男の子と話しながら、私はなんだか泣きそうな気持ちになりながら強く決心をした。

2

 今日は波が高くて数も多い。でも風はちょっとオンショア気味なので崩れた波が多い。午後五時四十分。放課後海に来てからもう何十セットもの波にアタックしているのに、やっぱり一つも乗れていない。もちろんスープ──崩れた後の白波には誰でも簡単に立てるけれど、私はきちんとピークから立ってフェイスを滑り降りたいのだ。

 沖に向かって必死にパドルしながら、それでも私は海と空にほれぼれと見とれてしまう。今日は分厚い曇り空なのに、空はどうしてこんなにも高く見えるんだろう。海の色も、雲の厚さを映して刻一刻と変わる。パドリング中の目線の高さが数センチ違うだけで、その複雑な海面はがらりと表情を変える。早く立ちたい。一五四センチの高さから見た海はどんな表情を見せるのか知りたい。どんなに絵がうまい人間でも──と私は思う。今私の見ている海は絶対に絵には描ききれないだろう。写真でもダメ、ビデオでもきっとダメだ。今日の情報の授業で習った二十一世紀のハイビジョンは、横が千九百個くらいの光点で構成されていてそれはもうものすごく高精細だという。でもそれでもきっとぜんぜんダメ。目の前のこの風景が千九百×千イコールたった何百万かの点で表現しきれるわけがない。それで十分きれいだと、授業で喋った先生もハイビジョンの発明者だか映画の制作者だかも本当に信じているのだろうか。そしてこんな風景の中にいる私自身も、きっと遠くから見たら美しく見えているに違いないと、私は祈るように思う。遠野くんに見て欲しいなと私は思い、それから引っ張り出されるように今日の学校での出来事を思い出す。