その巨体の谷間をゆっくりと歩きながら、

 ──俺はなんて愚かで身勝手なのだろう

 と彼は思う。

 この十年、いろいろな人のことをほとんどなんの意味もなく傷つけ、それは仕方のないことなんだと自身を欺き、自分自身も際限なく損ない続けてきた。

 なぜもっと、真剣に人を思いやることができなかったのだろう。なぜもっと、違う言葉を届けることができなかったのだろう。──彼が歩を進めるほどに、自分でもほとんど忘れていたような様々な後悔が心の表面に浮き上がってきた。

 それを止めることができなかった。

「すこし辛いんです」という水野の言葉。すこし。そんなわけはないのだ。「悪かったな」という彼の言葉、「もったいないじゃない」と言ったあの声、「私たちはもうダメなのかな」という塾の女の子、「優しくしないで」という澄田の声と、「ありがとう」という最後の言葉。「ごめんね」と呟く電話越しのあの声。それから。

「あなたはきっと大丈夫」、という明里の言葉。

 今まで深い海の底のように無音だった世界に、突然それらの声が浮き上がり、彼の中に溢れた。同時に様々な音が流れ込んでくる。ビルに巻く冬の風、街道を走るバイクやトラックや様々な車種、どこかでのぼりがはためく音、それらが混在して低く響く都市そのものの音。気づいたら世界は音に満ちていた。

 それから、激しい嗚咽。──自分の声だ。

 十五年前の駅舎以来おそらく初めて、彼の目は涙をこぼしていた。涙はいつまでもいつまでも、止めどなく溢れた。まるで体の中に大きな氷のかたまりを隠していてそれが溶け出したかのように、彼は泣き続けた。他にどうしようもなかった。そして思う。

 たったひとりきりでいい、なぜ俺は、誰かをすこしだけでも幸せに近づけることができなかったんだろう。

 高さ二百メートルの壁面を見上げると、遙か高み、滲んだ視界に赤い光が明滅していた。そんなに都合よく救いが降ってくるわけはないんだ、と彼は思う。

7

 その晩、彼女は見つけたばかりの古い手紙の封を、そっと開けた。

 取り出した便箋は、昨日書いたばかりのように真新しかった。自分の字もあまり今と変わっていなかった。

 すこしだけ読み進めて、ふたたび丁寧に封筒にしまう。いつかもっと歳をとったら、もう一度読んでみようと思う。まだきっと早い。

 それまでは大切にしまっておこう、そう思う。

*  *  *

 貴樹くんへ

 お元気ですか?

 今日がこんな大雪になるなんて、約束した時には思ってもみませんでしたね。電車も遅れているようです。だから私は、貴樹くんを待っている間にこれを書くことにします。

 目の前にはストーブがあるので、ここは暖かいです。そして私のカバンの中にはいつもびんせんが入っているんです。いつでも手紙が書けるように。この手紙をあとで貴樹くんに渡そうと思っています。だからあんまり早く着いちゃったら困るな。どうか急がないで、ゆっくり来てくださいね。

 今日会うのはとても久しぶりですよね。なんと十一ヵ月ぶりです。だから私は実は、すこし緊張しています。会ってもお互いに気づかなかったらどうしよう、なんて思います。でもここは東京にくらべればとても小さな駅だから、分からないなんてことはありえないんだけど。でも、学生服を着た貴樹くんもサッカー部に入った貴樹くんも、どんなにがんばって想像してみてもそれは知らない人みたいに思えます。

 ええと、何を書けばいいんだろう。

 うん、そうだ、まずはお礼から。今までちゃんと伝えられなかった気持ちを書きます。

 私が小学校四年生で東京に転校していった時に、貴樹くんがいてくれて本当に良かったと思っています。友達になれて嬉しかったです。貴樹くんがいなければ、私にとって学校はもっとずっとつらい場所になっていたと思います。

 だから私は、貴樹くんと離れて転校なんて、本当にぜんぜんしたくなかったのです。貴樹くんと同じ中学校に行って、一緒に大人になりたかったのです。それは私がずっと願っていたことでした。今はここの中学にもなんとか慣れましたが(だからあまり心配しないでください)、それでも「貴樹くんがいてくれたらどんなに良かっただろう」と思うことが、一日に何度もあるんです。

 そしてもうすぐ、貴樹くんがもっとずっと遠くに引っ越してしまうことも、私はとても悲しいです。今までは東京と栃木に離れてはいても、「でも私にはいざとなれば貴樹くんがいるんだから」ってずっと思っていました。電車に乗っていけばすぐに会えるんだから、と。でも今度は九州のむこうだなんて、ちょっと遠すぎます。

 私はこれからは、ひとりでもちゃんとやっていけるようにしなくてはいけません。そんなことが本当にできるのか、私にはちょっと自信がないんですけれど。でも、そうしなければならないんです。私も貴樹くんも。そうですよね?

 それから、これだけは言っておかなければなりません。私が今日言葉で伝えたいと思っていることですが、でも言えなかった時のために、手紙に書いてしまいます。

 私は貴樹くんのことが好きです。いつ好きになったのかはもう覚えていません。とても自然に、いつのまにか、好きになっていました。初めて会った時から、貴樹くんは強くて優しい男の子でした。私のことを、貴樹くんはいつも守ってくれました。

 貴樹くん、あなたはきっと大丈夫。どんなことがあっても、貴樹くんは絶対に立派で優しい大人になると思います。貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、私はずっと絶対に好きです。

 どうかどうか、それを覚えていてください。

*  *  *

 ある夜、彼は夢を見た。

 引っ越しのための段ボールが積まれた世田谷の部屋で、彼は手紙を書いていた。好きな女の子との初めてのデートで渡すつもりだった。それは風で飛ばされてしまうことになる、結局は彼女の手に渡ることのない手紙だった。夢の中の彼はそのことを知っていた。

 それでも僕はこの手紙を書かなければならないと、彼は思う。たとえ誰の目に触れることはなくても。自分にはこの手紙を書くことが必要なのだと、彼には分かっている。

 そして便箋をめくり、最後の一枚に文字を書き込む。

*  *  *

 大人になるということが具体的にはどういうことなのか、僕にはまだよく分かりません。

 でも、いつかずっと先にどこかで偶然に明里に会ったとしても、恥ずかしくないような人間になっていたいと僕は思います。

 そのことを、僕は明里と約束したいです。

 明里のことが、ずっと好きでした。

 どうかどうか元気で。

 さようなら。

8

 四月、東京の街は桜に彩られていた。

 明け方まで仕事をしていたせいで、目が覚めたのは昼近くだった。カーテンを開けると窓の外は日差しに溢れている。春霞にかすんだ高層ビル、その窓の一つひとつが、太陽の光を受けて気持ちよさそうに輝いてる。雑居ビルの合間に、ところどころ満開の桜が見える。東京には本当に桜が多いなと、あらためて思う。

 会社を辞めてから三ヵ月。彼は先週から久しぶりに仕事を始めた。会社勤め時代のつてを頼って、ひとりで設計からプログラミングまでをこなすタイプのこぢんまりした仕事を受けている。この先もフリーのプログラマとしてやっていくのか、自分にそれが可能なのかは分からないが、そろそろ何かを始めたいという気持ちになっていた。久しぶりに向きあうプログラミングは意外なほど面白く感じられ、十本の指でキーボードを打つ感触そのものが楽しかった。

 バターを薄く塗ったトーストを囓り、牛乳をたっぷり入れたカフェオレを飲んで朝食とした。ここ数日まとまった量の仕事をこなしていたから今日は休日にしようと、食器を洗いながら決める。

 薄いジャケットをはおり外に出て、目的もなく街を歩く。時折穏やかな風が髪を揺らす気持ちの良い日で、空気には昼下がりの匂いがした。

 会社を退職して以来、街にはそれぞれの時間帯の匂いがあることを彼は何年かぶりに思い出していた。早朝にはその一日を予感させる早朝だけの匂いがあり、夕方には一日の終わりを優しく包むような夕方だけの匂いがあった。星空には星空の匂いがあり、曇り空には曇り空の匂いがあった。それは人と都市と自然の営みが混然となった匂いだった。ずいぶんいろいろなことを忘れていたんだな、と彼は思う。

 狭い道の入りくむ住宅街をゆっくりと歩き、喉が渇くと自動販売機でコーヒーを買って公園で飲み、学校の校門から走り出て自分を追い越していく小学生たちの背中をなんとなく眺め、歩道橋の上から途切れることのない車列を眺めた。住宅や雑居ビルの向こうには新宿の高層ビル群が見え隠れしていた。その後ろにはまるで青の絵の具をたっぷりの水に溶かしたような淡く澄んだ空があり、いくつかの白い雲が風に流されている。

 踏切を、彼は渡っていた。踏切の脇には大きな桜の樹が立っていて、あたりのアスファルトは落ちた花びらでまっ白に染まっている。

 ゆっくりと舞う花びらを見て、

 秒速五センチだ、

 とふと思った。踏切の警報が鳴り始め、それは春の大気に染まり懐かしさを帯びてあたりに響く。

 目の前からひとりの女性が歩いてきていた。白いミュールがコンクリートを踏むコツコツという気持ちの良い音が、踏切の警報音の隙間に差し込まれていく。そして踏切の中央でふたりはすれ違う。

 その瞬間、彼の心でかすかな光が瞬く。

 そのまま別々の方向に歩き続けながら、今振り返れば──、きっとあの人も振り返ると、強く思った。なんの根拠もなく、でも確信に満ちて。

 そして踏切を渡りきったところで彼はゆっくりと振り返り、彼女を見る。彼女もこちらをゆっくりと振り返る。そして目が合う。

 心と記憶が激しくざわめいた瞬間、小田急線の急行がふたりの視界をふさいだ。

 この電車が過ぎた後で、と彼は思う。彼女は、そこにいるだろうか?

 ──どちらでもいい。もし彼女があの人だったとして、それだけでもう十分に奇跡だと、彼は思う。

 この電車が通り過ぎたら前に進もうと、彼は心を決めた。

あとがき

 本書『秒速5センチメートル』は、僕が監督したアニメーション映画『秒速5センチメートル』が原作になっている。つまり自作を自分でノベライズしたわけだが、映画をご覧いただいていなくても楽しんでお読みいただけるように留意した。原作映画を未見の方も安心してお手にお取りください……とは言いつつも、映画と小説で相互補完的になっている箇所や、映画とは意図的に違えた箇所などもあり、映画の後で小説を、あるいは小説の後で映画をご覧いただければ、より楽しんでもらえるのではないかと思う。

 映画のほうの『秒速5センチメートル』は二〇〇七年三月に渋谷シネマライズで初公開された。僕がこの小説を書きはじめたのもちょうど同じ時期からで、その後約四ヶ月間、全国各地の映画館を舞台挨拶に巡るいっぽうで、部屋の中では小説を書いていた。本書の元となったその小説は雑誌『ダ・ヴィンチ』に毎月掲載されていたので、映画館ではお客さんから映画の感想と小説の感想を同時に聞くということもあり、僕にとっては嬉しい時期だった。

 映像で表現できることと、文章で表現できることは違う。表現としては映像(と音楽)の方が手っ取り早いことも多いけれど、映像なんかは必要としない心情、というものもある。本書を執筆する作業は、そういうことを考えさせてくれる刺激的な経験でもあった。これから先もきっと、僕は映像を作ったりそれが物足りなくて文章を書いたり、あるいはその逆をしたり、はたまた文章的な映像を作ったりということを、繰り返していくのだと思う。

 本書を読んでくださった方、ほんとうにありがとうございました。

二〇〇七年八月 新海 誠


初出‥『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)2007年5月号~2007年10月号

著者

新海 誠(しんかい・まこと)

1973年長野県生まれ。映画監督・映像作家。ゲーム会社に勤める傍ら、自主制作アニメーション『ほしのこえ』を02年に発表し、数々の賞を受賞。04年『雲のむこう、約束の場所』を公開し、毎日映画コンクール・アニメーション映画賞を受賞。07年『秒速5センチメートル』を公開し、全国拡大公開され異例のロングラン上映を記録。本作DVDも好調なセールスを記録している。

小説・秒速5センチメートル

著者名……新海 誠

発行者……横里 隆

発行所……株式会社メディアファクトリー

     http://www.mediafactory.co.jp/

2012年3月31日  電子書籍版 ver.1.0.1

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©2007 Makoto Shinkai