会社帰りに水野の部屋に来たのは久しぶりだった。以前に来た時はまだクーラーをつけていたから、と彼は考えてみる。……そうだ、ほとんど二ヵ月ぶりだ。お互いに仕事が忙しくタイミングが合わなかったからだが、絶対に会えない、というほどでもなかったと思う。たぶん以前ならばもっと頻繁に会っていた。お互いに無理をしなくなった。

「ねえ、貴樹くんは小さな頃なんになりたかったの?」と、彼の会社の愚痴をひととおり聞いた後に、水野が尋ねた。彼はすこし考える。

「そういうものは何もなかった気がする」

「なんにも?」

「うん。毎日を生き抜くのに精一杯だったよ」と笑いながら言うと、「私も」と言って水野も笑い、皿に盛られた梨を一つ口に運んだ。しゃくり、という気持ちの良い音がする。

「水野さんも?」

「うん。学校でなりたいものを訊かれた時、いつも困っちゃったわ。だから今の会社に就職が決まった時、けっこうホッとしたの。これで二度と将来の夢なんかを考えなくていいんだって」

 うん、と同意しながら、彼も水野が剥いてくれた梨に手を伸ばす。

 なりたいもの。

 いつだって、自分の場所を見つけるために必死だった。自分はまだ、今でも、自分自身にさえなれていない気がする。何かに追いついていない気がする。〈ほんとうの自分〉とかそういうことではなく、まだ途上にすぎないと彼は思う。でも、どこへ向かっての?

 水野の携帯が鳴って、ちょっとごめんね、と言って彼女は携帯を持って廊下に向かった。彼は横目で見送り、煙草をくわえ、ライターで火をつける。廊下から楽しげな声が小さく聞こえてきて、突然、自分でも驚くくらい、彼は見知らぬ電話の相手に対して激しく嫉妬した。顔も知らない男が水野のセーターの下の白い肌に指を這わす姿が目に浮かび、瞬間、その男と水野を激しく憎んだ。

 それはせいぜい五分程度の電話だったが、「会社の後輩からだったわ」と言って水野が戻ってきた時、自分が理不尽に蔑まれているような気がした。でも彼女が悪いわけではない。あたりまえだ。「うん」と返事をしながら、自分の感情を押しつぶすように彼は煙草を灰皿にこすりつけた。なんなんだこれは、と愕然と彼は思う。

 翌朝、彼らはダイニングのテーブルに座り、久しぶりに一緒に朝食を食べた。

 窓の外に目をやると、空は灰色の雲に覆われている。すこし肌寒い朝だ。こうしてふたりで摂る日曜日の朝食は、彼らにとってとても象徴的で大切な時間だった。休日はまだ手つかずでそこにあり、たっぷりとした時間をどのように過ごしても良いのだ。まるで彼らのその先の人生みたいに。水野の作る朝食はいつでも美味しく、その時間はいつでも確かに幸せだった。そのはずだった。

 ナイフで切り分けたフレンチトーストにスクランブルエッグをのせて口に運ぶ水野を見ながら、ふと、ここで食べる朝食はこれが最後になるのではないかという予感が浮かんだ。理由なんてないし、なんとなく思っただけだ。それを望んでいたわけではないし、来週だってその次だって、彼は彼女と朝食を食べたかった。

 しかし実際には、それがふたりの最後の朝食となった。

*  *  *

 彼が会社に辞表を出そうと決めたのは、プロジェクトの終了まで三ヵ月という見通しがはっきりと立ってからだった。

 一度そう決めてしまうと、もっとずっと以前から自分が退職のことを考えていたのだということに気がついた。今のプロジェクトを終わらせて、その後一ヵ月ほどかけて必要な引き継ぎや整理を行い、できれば来年の二月までには退職したいと、彼はチームリーダーに伝えた。チームリーダーはいくぶん同情した口調で、それなら事業部長に相談して欲しいと言った。

 事業部長は彼から辞職の意を告げられると、本気で引き留めてくれた。待遇に不満があればある程度は対応できるし、何よりもここまできて辞める手はない。今が辛抱のしどころなんだ。今のプロジェクトは辛いかもしれないが、それが終わればお前の評価はもっと上がるし、仕事も面白くなるはずだ、と。

 そうかもしれない。でもこれは僕の人生なんです、と、声には出さずに彼は思う。

 待遇に不満はありません、と彼は答えた。それに今の仕事が辛いわけでもないんですと。それは嘘ではなかった。彼はただ辞めたいだけだった。そう伝えても、事業部長は納得してくれなかった。無理もない、と彼は思う。自分自身に対してさえ上手く説明できていないのだ。

 でもともかくも、いくぶんのごたごたはあったにしても、彼の退職は一月末と決まった。

 秋が深まり、空気が日に日に澄んだ冷たさを増していく中、彼は最後の仕事をひたすらにこなしていった。プロジェクト終了の明確な期限ができたことで彼は以前よりもさらに忙しくなり、休日はもうほとんどなかった。部屋にいる短い時間は、たいてい泥のように深く深く眠った。それでも常に寝不足で体はいつもだるく火照っていて、毎朝の通勤電車では酷い吐き気がした。しかしそれは余計なことを考えなくてすむ生活でもあった。そういう日々に安らぎさえ感じた。

 辞表を出せば会社での居心地が悪くなることを覚悟していたが、実際にはその逆だった。チームリーダーは不器用ながら感謝の意を示してくれていたし、事業部長は新しい就職先の心配までしてくれた。お前なら俺も自信を持って薦められるから、と事業部長は言った。しばらくはゆっくりしようと思うんですと、彼はそれを丁寧に辞退した。

 関東に冷たい風を送りこむ台風が通り過ぎた後に、彼はスーツを冬物に替えた。ある寒い朝には箪笥から出したばかりでまだかすかにナフタリンの匂いのするコートを着込み、また別の日には水野からもらったマフラーを巻き、彼自身もまた次第に冬を身に纏っていった。誰ともほとんど口をきかず、それを苦痛とも思わなかった。

 水野とはメールで時折──週に一、二回──連絡を取りあっていた。メールが戻ってくるまでにずいぶん間が空くようになっていたが、彼女も忙しいのだろうとなんとなく思う程度だった。それにそれはお互いさまなのだ。気がつけば、一緒に朝食を食べたあの日からもう三ヵ月も、水野とは会っていないのだった。

 そして一日の仕事を終え、中央線の最終電車に乗り込みぐったりと席に座るたびに、彼はいつも深く息を吐いた。とてもとても深く。

 東京行きの深夜の電車はすいていて、いつでもかすかに酒と疲労の匂いがした。耳に馴染んだ電車の走行音を聞きながら、中野の街の向こうから近づいてくる高層ビルの灯を眺めているとふと、空高くから自分を見下ろしているような気持ちになった。地表をゆっくりと這う細い光の線が墓標のような巨大なビルに向かっている景色を、彼ははっきりと思い浮かべることができた。

 強い風が吹き、遙か地表の街の灯をまるで星のように瞬かせる。そして僕はあの細い光の中に含まれていて、この巨大な惑星の表面をゆっくりと移動しているのだ。

 電車が新宿駅に到着しホームに降りる時、彼は自分の座っていた座席を振り返らずにはいられなかった。重い疲労にくるまれたスーツ姿の自分が、まだそこに座ったままなのではないかという気持ちがどうしても拭えなかったからだ。

 今でもまだ東京に慣れることができていないと彼は思う。駅のホームのベンチにも、いくつも列をなす自動改札にも、テナントのたちならぶ地下街の通路にも。

*  *  *

 十二月のある日、二年近く続いたプロジェクトが終了した。

 終わってみると、意外なほど感慨はなかった。昨日までより一日ぶん疲労が濃くなっただけだ。コーヒー一杯だけの休憩を挟んで、彼は退職の準備を始めた。結局その日も、帰りは最終電車だった。

 新宿駅で降りて自動改札を抜け、西口地下のタクシー乗り場にできた行列を見て、そういえば金曜の夜だった、と彼は気づいた。おまけに今日はクリスマスだ。駅構内のくぐもったざわめきに混じってジングルベルがどこからか小さく聞こえてくる。タクシーは諦めて歩いて帰宅することにして、彼は西新宿に向かう地下道を歩き、高層ビル街に出た。

 深夜のこの場所はいつも静かだ。ビルの根本を沿うように歩く。新宿から歩いて帰る時のいつものコースだった。ふいに、コートのポケットで携帯電話が振動した。立ち止まり、一呼吸おいてから、携帯を取り出す。

 水野からだ。

 出ることができなかった。なぜだろう、出たくなかった。ただひたすらに辛かった。しかし何が辛いのかが分からないのだ。どうすることもできず、携帯電話の小さな液晶ディスプレイに表示された〈水野理紗〉という名前を、彼は立ち止まったままじっと見つめていた。携帯電話は何度か振動し、やがて唐突に、こと尽きたように沈黙した。

 胸に急に熱いものが込みあげてきて、彼は上を見上げる。

 まるで空に向かって消失していくように、視界の半分を黒々としたビルの壁面が占めている。壁面にはいくつかの窓の明かりがあり、その遙か先には息づくように赤く明滅している航空障害灯があり、その上には星のない都市の夜空があった。そしてゆっくりと、無数の小さな欠片かけらが空から降りてくるのが見えた。

 ──雪だ。

 せめて一言だけでも、と彼は思う。

 その一言だけが、切実に欲しかった。僕が求めているのはたった一つの言葉だけなのに、なぜ、誰もそれを言ってくれないのだろう。そういう願いがずいぶんと身勝手なものであることも分かっていたが、それを望まずにはいられなかった。久しぶりに目にした雪が、心のずっと深いところにあった扉を開いてしまったかのようだった。そして一度それに気づいてしまうと、今までずっと、自分はそれを求めていたのだということが彼にははっきりと分かるのだった。

 ずっと昔のあの日、あの子が言ってくれた言葉。

 貴樹くん、あなたはきっと大丈夫だよ、と。

5

 篠原明あか里りがその古い手紙を見つけたのは、引っ越しのための荷物を整理している時だった。

 それは押し入れの奥深くにしまわれた段ボールの中にあった。段ボールの蓋を閉じてあるガムテープにはただ「むかしのもの」と書かれているだけで(もちろんそれは何年も前に自分で書いたはずなのだが)、彼女はなんとなく興味を惹かれてその段ボール箱を開けてみた。その中には、小学生から中学生時代にかけての細々としたものが入っていた。卒業文集、修学旅行のしおり、小学生向けの月刊誌が数冊、何を録音したのかもう覚えていないカセットテープ、色褪せた赤いランドセルと、中学の時に使っていた革の鞄。

 そういう懐かしいものたちを一つひとつ手にとって眺めながら、もしかしたらあの手紙を見つけるかもしれない、という予感があった。そして段ボールのいちばん下にクッキーの空き缶を見つけた時に、彼女は思い出した。そうだ、私は中学校の卒業式の夜、あの手紙をこの缶の中にしまったんだ。鞄から出すことができずに長い間持ち歩き続けていた手紙で、卒業を機会に、振り切るようにこの缶にしまったのだ。

 缶の蓋を開けると、中学の時に大切にしていた薄いノートに挟まれて、その手紙はあった。それは彼女が初めて書いたラブレターだった。

 それはもう十五年も前、好きだった男の子との初めてのデートの時に渡すつもりで書いた手紙だった。

 その日は深く静かな雪の日だったな、と彼女は思い出す。まだ私は十三歳になったばかりで、私が好きだった男の子は電車で三時間もかかる場所に住んでいて、その日は彼が電車を乗り継いで私に会いに来てくれる日だったのだ。でも雪のせいで電車が遅れて、彼は結局四時間以上も遅れてしまった。彼を待っている間に、私は木造の小さな駅でストーブの前の椅子に座りながら、この手紙を書いたんだ。

 手紙を手にしていると、その時の不安や寂しさが蘇った。その男の子を愛しいと思う気持ちも、彼に会いたいと思う気持ちも、それが十五年も前のものだったなんて信じられないくらいにありありと思い出すことができた。それはまるで今ある心のように強く鮮やかで、その残照の眩しさに彼女は戸惑いを覚えるほどだった。

 私はほんとうにまっすぐに彼のことが好きだったんだな、と彼女は思う。私と彼は、その初めてのデートで初めてのキスをした。そのキスの前と後とでは、世界がまるで変わってしまったみたいに私は感じた。手紙を渡せなかったのは、だからだ。

 そういうことを今でもまるで昨日のことのように──そうだ、ほんとうに昨日のことみたいだ──、彼女は思い出すことができた。左手の薬指にはめた小さな宝石のついた指輪だけが、十五年という時の経過を示していた。

 その晩、彼女はあの日の夢を見た。まだ子どもだった彼女と彼は、雪の降る静かな夜、桜の樹の下でゆっくりと落ちてくる雪を見上げていた。

*  *  *

 翌日、岩舟駅には粉雪が舞っていた。とはいえ雲は薄く、ところどころには青空が透けて見えており、本降りになる前に止みそうな気配だった。それでも十二月に降雪があるのはずいぶん久しぶりだ。あの頃のような大雪は、ここ数年ほとんど降っていなかった。

 お正月までいればいいのに、と母親に言われ、でもいろいろ準備もあるから、と彼女は答える。

「そうだな、彼にもうまいもの作ってやれよ」と父親が言う。うん、と返事をしながら、お父さんもお母さんも歳をとったなと彼女は思った。でもそれも当然だ、もうすぐ定年の年齢だもの。そして私だって、もう結婚するような歳になったのだから。

 小山行きの電車を待ちながら、こんなふうに両親と三人で駅のホームにいるというのはなんだかおかしな感じだと、彼女は思う。もしかしたらこの土地に引っ越してきた日以来かもしれない。

 あの日、東京から電車を乗り継ぎ、母親とふたりでこのホームに降りた時の心細さを、彼女は今でもよく覚えている。先に来ていた父親が駅のホームで待っていてくれた。岩舟はもともとは父親の実家だったから、彼女も幼い頃から何度か来たことのある場所ではあった。何もないところだとは思ったけれど、静かで良い場所だとも思っていた。それでも暮らすとなると話は別なのだ。宇都宮で生まれ、ものごころがついてからは静岡で育ち、小学校四年から六年までを東京で過ごした彼女にとっては、岩舟駅の小さなホームはとてもとても心細く見えた。自分の住むべき場所ではないように感じた。東京への強烈な郷愁で、涙が出そうにさえなった。

「何かあったら電話するのよ」と、昨夜から何度も繰り返していることを母親が言う。ふいに両親と、この小さな町が愛おしくなる。今では離れがたい故郷なのだ。彼女は笑って優しく答える。

「大丈夫よ。来月には式で会うんだからそんなに心配しないで。寒いからもう戻りなよ」

 そう彼女が言い終わるのと同時に、遠くから近づいてくる両毛線の警笛が聞こえる。

 昼下がりの両毛線はすいていて、車輌には彼女ひとりしかいなかった。持ってきた文庫本に集中できずに、頬杖をついて窓の外を眺める。

 稲が刈られた後の何もない田園が、いちめんに広がっている。その目の前の風景に、厚い雪が降り積もった状態を彼女は想像してみる。時間は真夜中。灯りは遠くに数えるほど。きっと窓枠にはびっしりと霜が固まっている。

 ──それはとても心細い風景だったろうと、彼女は思う。空腹と誰かを待たせている罪悪感をいっぱいに抱え、やがて停車してしまう電車の中で、あの人はその風景に何を見ていたんだろう。

 ……もしかしたら。

 もしかしたら、私が家に帰っていることを、彼は願っていたかもしれない。優しい男の子だったから。でも私はたとえ何時間でも彼を待つのは平気だった。会いたくて会いたくてたまらなかった。彼が来ないかもしれないなんて疑いは欠片も持たなかった。あの日電車に閉じこめられていた彼に声をかけてあげることができるなら、と彼女は強く思った。もしそんなことができるのなら。

 大丈夫、あなたの恋人はずっと待っているから。

 あなたがちゃんと会いに来てくれることを、その女の子はちゃんと知っているから。だからこわばった体から力を抜いて。どうか恋人との楽しい時間を想像してあげて。あなたたちはその後もう二度と会うことはないのだけれど、あの奇跡みたいな時間を、どうか大切なものとしていつまでも心の奥にとどめてあげて。

 そこまで考えて、彼女は思わず笑みをこぼした。──何を考えているのかしら、私は。昨日からあの男の子のことばかり。

 たぶん昨日見つけた手紙のせいだ、と彼女は思う。入籍前日に他の男の子のことばかり考えているなんて、ちょっと不誠実だろうか。でも夫となるあの人は、きっとそんなことを気にしないだろうとも、彼女は思う。彼が高崎から東京へと転勤することが決まり、それを機会にふたりは結婚を決めた。細かい不満を言い出せばきりがないけれど、でも私は彼をとても愛している。たぶん彼も私を。あの男の子との想い出は、もう私自身の大切な一部なのだ。食べたものが血肉となるように、もう切り離すことのできない私の心の一部。

 貴樹くんが元気でいますようにと、窓の外の流れていく景色を眺めながら、明里は祈った。

6

 ただ生活をしているだけで、悲しみはそこここに積もる。

 電灯のスイッチを押し、蛍光灯に照らされた自分の部屋を眺めながら、そう、遠野貴樹は思う。まるで細かな埃が気づかぬうちに厚く堆積するように、いつの間にかこの部屋にはそういう感情が満ちている。

 たとえば、今は一つだけになった洗面所の歯ブラシ。たとえば、かつては他の人のために干していた白いシーツ。たとえば、携帯電話の通話履歴。

 いつもと同じ最終電車で部屋に戻ってきて、ネクタイを外しスーツをハンガーに掛けながら、彼はそのようなことを思う。

 でもそれを言うならば水野の方がずっと辛いに違いないと、冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら彼は思う。水野がこの部屋に来た回数よりもずっと多く、彼は西国分寺の水野の部屋に通ったからだ。それをとても申し訳なく思う。そんなつもりではなかったのだ。胃に送り込んだ冷たいビールが、帰り道の外気で冷え込んだ彼の体温をさらに奪う。

 一月末。

 最後の仕事の日も、彼はいつもと同じようにコートを着込んで会社に向かい、五年間座り慣れた自分のデスクにつき、コンピュータの電源を入れ、OSが起動する間にコーヒーを飲みながらその日一日の作業確認をした。業務の引き継ぎはすっかり終わっていたが、他のチームのための単発の小さな仕事を、彼は退職日までできる限り引き受けていた。そして皮肉なことに、そういう仕事を通じて彼には社内に友人と呼べるような者たちが何人かできていた。皆が彼の退職を惜しみ、今夜は一席設けたいと言ってくれたが、彼はそれを丁寧に断った。「せっかくなのに申し訳ないんですけど、いつも通りに仕事をしたいんです。これからしばらく暇になるから、また誘ってください」と彼は言った。

 夕方にはかつてのチームリーダーが彼の席までやってきて、床を見つめながら「いろいろ悪かったな」、とぼそりと言った。彼はすこし驚いて、「とんでもありません」と返事をした。彼らが会話をしたのは、一年前にチームリーダーが他チームに異動になって以来だった。

 そしてキーボードを叩きながら、もう二度とここに来なくてもよいのだと思う。それはとても不思議な感覚だった。

〈あなたのことは今でも好きです〉と、水野はその最後のメールに書いていた。

〈これからもずっと好きなままでいると思います。貴樹くんは今でも私にとって、優しくて素敵で、すこし遠い憧れの人です〉

〈私は貴樹くんと付きあって、人はなんて簡単に誰かに心を支配されてしまうものなんだろう、ということを初めて知りました。私はこの三年間、毎日まいにち貴樹くんを好きになっていってしまったような気がします。貴樹くんの一言ひとこと、メールの一文いちぶんに喜んだり悲しんだりしていました。つまらないことでずいぶん嫉妬して、貴樹くんをたくさん困らせました。そして、勝手な言い方なのだけれど、そういうことになんだかちょっと疲れてきてしまったような気がするのです〉

〈私はそういうことを半年くらい前から、貴樹くんにいろんな形で伝えようとしてきました。でも、どうしても上手く伝えることができませんでした〉

〈貴樹くんもいつも言ってくれているように、あなたはきっと私のことを好きでいてくれているのだろうとは思います。でも私たちが人を好きになるやりかたは、お互いにちょっとだけ違うのかもしれません。そのちょっとの違いが、私にはだんだん、すこし、辛いのです〉

 最後の帰宅もやはり深夜だった。

 特に冷える夜で、電車の窓は結露で隙間なく曇っていた。その向こうの滲んだ高層ビルの光を、彼は見つめた。解放感もなければ、次の職を探さなければという焦りもなかった。何を思えばよいのかが、よく分からなかった。最近僕は何も分からないんだなと、彼は苦笑する。

 電車を降りていつものように地下通路を抜け、西新宿のビル街に出る。マフラーもコートもまったく役に立たないくらい、夜の空気は痛いほどに冷たかった。ほとんど灯の消えた高層ビルはずっと昔に滅んだ巨大な古代生物のように見えた。