そのようにして、社会に出てからの数年は瞬く間に過ぎた。

 最初のうち、それは久しぶりに訪れた獲得の日々であるように、彼には思えた。中学時代、自分の体が大人に向かって変化を続けたあの誇らしい感覚──筋肉や体力を日に日に身に纏い、病弱だった幼い体が刷新されていくあの懐かしい感覚を、プログラミング技術の向上は彼に思い起こさせた。そして彼の仕事は周囲の信頼を徐々に獲得し、それに応じて収入も上がった。彼は季節に一度ほどのペースで仕事のための新しいスーツを買い、休日にはひとりで部屋の掃除や本を読んで過ごし、半年に一度ほどは昔からの友人に会って酒を飲んだ。友人はもう増えも減りもしなかった。

 毎日朝八時半に家を出て、深夜一時過ぎに部屋に戻る。

 そういう日々をひたすら繰り返す。電車の窓から眺める西新宿の高層ビルはどの季節、どのような天候でもため息が出るほど美しかった。それどころか年齢を重ねるほどに、その眺めは輝きを増した。

 時折、その美しさが自分に何かを突きつけているような気がした。だがそれがなんなのかは、彼には分からなかった。

*  *  *

 遠野さん、と新宿駅のホームで名前を呼ばれたのは、久しぶりに晴れ間がのぞく梅雨の中なか日び、日曜日の午後だった。

 声をかけてきたのはベージュのつば広の日傘帽子をかぶり眼鏡をかけた若い女性だった。とっさには誰か分からなかったが、理知的な雰囲気には覚えがあるような気がする。言葉に窮していると「……システムにお勤めですよね」と会社名を言われ、そこでようやく思い出した。

「ああ、ええと、吉村さんの部署の」

「水野です。良かった、思い出してもらえて」

「すみません、以前お会いした時はスーツを着てらしたから……」

「そうか、今日は帽子もかぶってますもんね。私は遠野さん、すぐに分かりましたよ。私服だと学生さんみたいですね」

 学生? 悪気はないんだろうなと思いながら、なんとなく階段に向かって並んで歩き始めた。そういう彼女こそ、まだ大学生のように見えた。茶色のウェッジサンダルから見える足先には、薄桃色のペディキュアがひかえめに光っていた。名前はなんと言ったっけ……、ええと、水野さんだ。先月成果物の引き渡しの際にクライアントの会社を訪れた時、先方の担当者の部下が彼女で、二度ほど会ったことがあった。名刺交換くらいしかしなかったが、ずいぶん真面目そうな人だなと思ったのと、澄んだ声が印象に残っていた。

 そうだ、確か水野理り紗さという名前だった。名刺の字面と本人の印象がきれいに一致しているなと思った覚えがある。ホームから階段を下り、駅の通路をなんとなく右に曲がって歩きながら彼は訊いた。

「水野さんも東口ですか?」

「えーと、はい、どこでも」

「どこでも?」

「ええと、実は特に予定がないんです。でも雨も上がったしお天気もいいし、買い物でもしようかと思って」と笑いながら言う。つられて彼も笑顔になる。

「同じです、僕も。じゃあ良かったら、すこしお茶でも飲みませんか」そう言うと、水野はどきりとするような笑顔を向けて、はい、と答えた。

 ふたりは東口近くの地下にある狭い喫茶店でコーヒーを飲み、二時間ほど話し、連絡先を交換してその日は別れた。

 ひとりになって本屋の棚の間を歩きながら、彼は喉が軽く痺れたように疲れていることに気づいた。そういえば、こんなふうに誰かと目的のない会話を長い時間したのはずいぶん久しぶりだった。ほとんど初対面のようなものなのに、二時間もよくも飽きずに話をしたものだ、とあらためて気づく。仕事のプロジェクトがもう終わっているという気安さもあったかもしれない。互いの会社の噂話や、住んでいる場所のことや、学生時代のこと。特別な話は何もなかったけれど、彼女との会話は呼吸がぴったりと重なるように心地よかった。久しぶりに、胸の奥がじんわりと温かくなっていた。

 その一週間後に、彼女にメールを出して夕食に誘った。残業を早めに切り上げ、吉祥寺で待ち合わせて一緒に食事をして、夜十時過ぎに別れた。その翌週、今度は彼女から食事の誘いがあり、その次の週は、彼の誘いで休日に待ち合わせて映画を観て食事をした。そのように礼儀正しく慎重に、ゆっくりとふたりは関係を重ねていった。

 水野理紗は、会うほどに感じが良くなっていくというタイプの女性だった。眼鏡と長い黒髪のせいで一見地味に見えるのだけれど、よく見ると顔立ちはびっくりするくらい整っていた。肌を隠すような服装も口数のすくなさもどこか恥ずかしそうな仕草も、まるで「綺麗になんて見られたくない」と思っているかのようだった。年齢は彼より二つ下で、性格は誠実で素直だった。決して大声になることがなく、ゆっくりと気持ちの良いリズムで喋った。一緒にいると緊張がほどけた。

 彼女のマンションは西国分寺にあり会社も中央線沿いだったから、デートはいつもその沿線だった。電車の中で時折触れあう肩や、食事をシェアする時のしぐさや、並んで歩く時の歩調から、彼は彼女の好意をはっきりと感じることができた。どちらかが一歩踏み出せばきっとどちらも拒否しないだろうことを、すでにお互いに分かっていた。それでも、彼にはそうすべきかどうかの判断がつかなかった。

 今まで僕は──と、吉祥寺駅で反対側のホームへと向かう彼女を見送りながら彼は思う。誰かを好きになる時、急にそうなりすぎてしまっていたような気がする。そしてあっという間に食い尽くし、その人を失ってしまうのだ。そういうことを、もう繰り返したくなかった。

*  *  *

 その年の夏の終わり、ある雨の晩に自分の部屋で、彼はH2Aロケットの打ち上げが成功したというニュースを目にした。

 湿気の酷い日で、窓を閉め切ってクーラーを低い温度でつけていたが、それでも雨が地表を叩く音と濡れた道路を車が滑る音とともに、べたつく湿気が部屋の中に忍び込んでいた。テレビの画面には、見覚えのある種子島宇宙センターから巨大な炎を吐き出して上昇するH2Aの姿が映っている。カットが切り替わり雲間を昇ってゆくH2Aを超望遠で捉えた映像になり、その次に、ロケット本体に据え付けられたカメラから補助ブースターを見下ろしたカットになった。遙か眼下の雲の切れ目に、遠ざかる種子島の全景が見えていた。彼が高校時代を過ごした中種子町もその海岸線も、くっきりと見分けることができた。

 一瞬、ぞくりとした寒気のようなものが彼の体を走った。

 でもそういう光景を前に、自分が何を感じるべきなのかが彼にはよく分からなかった。種子島はもう故郷ではなかった。両親はずいぶん前に長野に転勤していておそらくそこに永住するだろうし、その島は彼にとってはすでに通過した場所だった。ぬるくなりはじめた缶ビールをひとくち飲み、苦い液体が喉を通過して胃に落ちていく感触を確かめる。若い女性のニュースキャスターが、打ち上げられた衛星は移動端末のための通信衛星だと、なんの感慨もない口調で語っていた。──ということは、この打ち上げは自分の仕事ともまったく無関係なわけでもないのだ。でもそういうこととは関係なく、自分はずいぶん遠いところに運ばれてきてしまったと、彼は思う。

 初めて打ち上げを見たのは十七歳の時だ。隣には制服を着た女の子がいた。クラスは違ったが仲が良かった。というよりも、その女の子がわりと一方的に彼になついていた。澄田花か苗なえという、サーフィンでよく日に焼けた快活で可愛らしい女の子だった。

 十年近い歳月が感情の起伏を優しく均ならしてくれてはいたが、それでも澄田のことを考えると、今でもすこしだけ胸が痛む。彼女の背丈や汗の匂い、声や笑顔や泣き顔、そういう彼女の気配すべてが、思春期を過ごした島の色や音や匂いとともに鮮明に思い起こされてくる。それは後悔に似た感情だったが、だからといって、当時の自分にはやはりあのように振る舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。澄田が自分に惹かれた理由も、彼女が告白しようとした何度かの瞬間も。それを言わせなかった自分の気持ちも、打ち上げを見た時の一瞬の高揚の重なりも、その後の彼女の諦めも。すべてがくっきりと見えていて、それでもあの時の自分には何もできなかった。

 彼が大学進学のために上京することになった時、澄田にだけは飛行機の時間を伝えた。出発はよく晴れた三月の風の強い日。まるでフェリー乗り場のようにも見える小さな空港の駐車場で、ふたりは最後の短い話をした。途切れがちな会話の間、澄田はずっと泣いていたけれど、それでも別れ際には彼女は笑った。たぶんあの時すでに、澄田は自分よりもずっと大人でずっと強かったのだと彼は思う。

 自分はあの時、彼女に対して笑顔を向けることができていただろうか? もうよく覚えていなかった。

 深夜二時二十分。

 明日の出勤に備えて、もう寝なければならない時間だ。ニュースはすでに終わり、いつの間にか通信販売の番組が始まっている。

 彼はテレビを消して歯を磨き、クーラーのタイマーを一時間で切れるようにセットして部屋の電気を消し、ベッドに入る。枕元で充電している携帯電話の小さな光が点滅していて、メール着信があったことを知る。画面を開くと、ディスプレイの白い光に部屋の中がぼんやりと照らされる。水野からの食事の誘いだった。彼はベッドに身を横たえ、しばらく目をつむる。

 まぶたの裏には様々な模様が浮かんでいる。まぶたが眼球を押さえる圧力を視神経は光と感じるから、人間は決して本当の暗闇を見ることはできない、そう教えてくれたのは誰だったろう。

 ……そういえばあの頃の自分には携帯電話で誰にも出すことのないメールを打つ癖があったと、彼はふと思い出した。最初のうち、それはひとりの女の子へ宛てたメールだった。メールアドレスも知らない、いつの間にか文通も途絶えてしまった女の子。その子への手紙を書かなくなってからも、しかし自分の中に収まりきらない感情があった時、それを彼女へ伝えるつもりで彼はメールを打ち、決して送信することなく削除した。それは彼にとって準備期間のようなものだった。ひとりで世界に出ていくための助走のようなもの。

 しかし次第に、メールの文面は誰に宛てたものでもない、漠然とした独り言のようなものへと変わっていき、やがてその癖も消えた。そのことに気づいた時、もう準備期間は終わったのだと彼は思った。

 もう彼女への手紙は出さない。

 彼女からの手紙も、きっともう来ない。

 ──そういうことを考えているうちに、あの頃の自分が抱えていたひりひりとした焦りのようなものを、彼はありありと思い出した。その気持ちはあまりにも今の自分に通底していて、結局自分は何も変わっていないのかと、いささか愕然とする。無知で傲慢で残酷、あの頃の自分。いや、それでも──と、目を開きながら彼は思う。すくなくとも今の自分には、はっきりと大切だと思える相手がいる。

 たぶん自分は水野が好きなんだ、と彼は思う。

 今度会った時に気持ちを伝える。そう決心をして、彼はメールの返信を打った。今度こそ、水野と自分の気持ちにきちんと向きあおう。あの最後の日、澄田が自分にしてくれたように。

 あの日、島の空港で。

 互いに見慣れぬ私服姿で、強い風が澄田の髪と電線とフェニックスの葉を揺らしていた。彼女は泣きながら、それでも彼に笑顔を向けて言ったのだ。

 ずっと遠野くんのことが好きだったの。今までずっとありがとう、と。

4

 働き始めて三年目に配属されたチームで、彼の仕事は一つの転機を迎えた。

 それは彼の入社以前から続いているプロジェクトだったが、長い時間をかけて迷走を続けた結果、当初の目標を大幅に縮小して終了させることが会社の方針として決まっていた。いわば敗戦処理のような仕事で、複雑に絡み合い膨れあがったプログラム群を整理し、なんとか使い物になる成果物を救い出して被害を最小限に抑えて欲しいというのが、彼に異動を告げた事業部長からのオーダーだった。要するに、おまえの能力は認めたからこのへんで理不尽な苦労もしてこい、ということらしかった。

 最初のうち、彼はチームリーダーに命じられるまま仕事を続けた。しかしそのやり方では余計なサブルーチンが蓄積していくだけで、かえって事態が悪化していくということにすぐに気づいた。それをリーダーに進言したが取りあってもらえず、彼は仕方なく一ヵ月間いつも以上に残業を増やした。その一ヵ月の間、リーダーに命じられた通りの仕事を行うと同時に、彼がベストだと考える方法で同じ仕事を処理してみた。結果は明らかで、彼の考えた方法でなければプロジェクトは収束に向かわなかった。その結果を携えて再度リーダーに掛けあったが、激しく叱責されたうえに、今後二度と独断を行うなと強く言いふくめられた。

 彼は困惑してチームの他のスタッフたちの仕事を見渡してみたが、全員がただリーダーに命ぜられるままの仕事を行っているだけだった。これではプロジェクトは終わるわけはなかった。間違えた初期条件で始めた仕事は、根本を正さぬ限りは前に進んでもより複雑に誤謬を重ねていくだけだ。そしてこのプロジェクトは、初期条件を見直すには長く進め過ぎていた。会社の言う通り、いかに上手くたたむかを考えるべきなのだ。

 彼は迷った末に、彼に異動を命じた事業部長に相談を持ちかけた。事業部長は長い時間話を聞いてくれたが、結論として言っていることは結局、チームリーダーの立場を立てつつもプロジェクトを上手く終わらせてくれ、ということだった。そんなことは不可能だと、彼は思った。

 それから三ヵ月以上、ひたすらに不毛な仕事が続いた。チームリーダーは彼なりにプロジェクトを成功させたいのだということも理解できたが、だからといって黙って事態を悪化させる作業を続けることは、彼にはできなかった。幾度となくリーダーから怒鳴りつけられながら、チームの中で彼だけが独自に仕事を進めた。事業部長が彼の行為を黙認してくれているらしいことだけが、救いといえば救いだった。しかし彼の作業の成果を上回る混乱を、彼以外のスタッフが日々積み重ねていった。煙草の本数が増え、帰宅してから飲むビールの量が増えた。

 彼はある日耐えかねて、事業部長に自分をチームから外してくれと頼み込んだ。さもなければリーダーを説得して欲しい。それも駄目ならば会社を辞める、と。

 結局、その翌週にチームリーダーは異動となった。替わりに入ってきた新しいリーダーは他プロジェクトも兼任しており、やっかいごとを背負い込まされたことであからさまに彼を冷淡に扱ったが、すくなくとも仕事については合理的な判断を下す人間だった。

 ともかくも、これでやっと出口に向かって歩き始めることができる。仕事はますます忙しくなり職場ではますます孤独になったが、彼は懸命に働いた。もうそうすることしかできなかった。やれることはすべてやったのだ。

 そういう状況の中で、水野理紗と過ごす時間は以前にも増して貴重なものになっていった。

 一週か二週に一度、会社帰りに彼女のマンションのある西国分寺駅に通った。待ち合わせは夜の九時半で、時々は小さな花束を買っていった。会社の近くの花屋は夜八時までしか営業していないので、彼はそういう時は七時頃に会社を抜け出して花を買い、駅のコインロッカーにしまい、急いで会社に戻って八時半まで仕事をする。そういう密やかな行動は楽しかった。そして混んだ中央線に乗り、花束が潰されないように気をつけながら、水野の待つ駅に向かう。

 土曜日の夜は、時々どちらかの部屋に泊まった。彼が水野の部屋に泊まることの方が多かったが、水野が泊まりに来ることもあった。お互いの部屋には二本の歯ブラシが置かれ、彼女の部屋には何組かの彼の下着が置かれ、彼の部屋にはいつのまにか料理器具と調味料が置かれていた。今までは決して読まなかったような種類の雑誌が部屋にすこしずつ増えていくことは、彼の気持ちを温かくした。

 夕食はいつも水野が作ってくれた。料理を待つ間、包丁の音や換気扇が回る音、麺が茹でられる匂いや魚が焼かれる匂いをかぎながら、彼はノートパソコンで仕事の続きをした。そんな時は、彼は実に穏やかな気持ちでキーボードを叩いた。料理の音とキーを叩く音が小さな部屋を優しく満たしていて、それは彼の知るかぎり、最も心安まる空間であり時間であった。

 水野のことで覚えていることはたくさんある。

 たとえば食事。水野はいつもとても美しく食事をした。鰆さわらの身をとても綺麗に骨からほぐしたし、肉を切り分ける指先は淀みなく、パスタはフォークとスプーンを器用に使い見とれてしまうくらい上品に口に運んだ。それから、コーヒーカップを包む桜色の爪先。頬の湿り気、指先の冷たさ、髪の匂い、肌の甘さ、汗ばんだ手のひら、煙草の匂いが移った唇、切なげな吐息。

 線路沿いにある彼女のマンションで、部屋の灯りを消してベッドにもぐり込んでいる時、彼はよく窓の向こうの空を見上げた。冬になると星空が綺麗に見えた。外はたぶん凍えるほど寒く、部屋の空気も吐く息が白くなるほど冷たかったが、裸の肩に乗せた彼女の頭の重みは温かく心地よかった。そういう時、線路を走る中央線のガタン、ガタンという音は、まるでずっと遠くの国から響いてくる知らない言葉のように、彼の耳に響いた。今までとはまったく違う場所に自分がいるような気がした。そしてもしかしたら、僕がずっと来たかった場所はここなのかもしれないと、彼は思う。

 自分が今までどれほど乾いていたのか、どれほど孤独に過ごしていたのかということを、水野との日々で彼は知った。

*  *  *

 だからこそ、水野と別れることになった時、底知れぬ闇を覗き込む時のような不安が、彼を包んだ。

 三年間それなりの想いを賭して、彼らなりに必死に関係を築いてきた。にもかかわらず、結局は彼らの道は途中で別れていた。この先をふたたびひとりきりで歩いていかなければならないと思うと、重い重い疲労のようなものを彼は感じた。

 何があったわけでもなかったのだと、彼は思う。決定的な出来事は何もなかった。しかしそれでも、だからこそ、人の気持ちは決して重ならずに流れてしまう。

 深夜、窓の外の車の音に耳をすませながら、暗闇の中で目を見開いて、彼は必死に思う。ほどけてしまいそうな思考を、なんとか強引にかき集め、ひとかけらでも教訓を得ようとする。

 ──でもまあ仕方がない。結局は、誰とだっていつまでも一緒に居られるわけではないのだ。人はこうやって、喪失に慣れていかなければならないのだ。

 僕は今までだって、そうやってなんとかやってきたのだ。

*  *  *

 彼が会社を辞めたのも、水野との別れに前後する時期だった。

 だからといってその二つの出来事が関係しているかと訊かれても、彼にはよく分からなかった。たぶん関係はないような気がする。仕事でのストレスで水野にあたってしまったことは何度もあったし、その逆もあったが、そういうことはむしろ表層的な出来事だったと思う。もっと言葉では説明できないような──不全感のようなものが、その頃の自分をいつでも薄く覆っていたような気がする。でも、だから?

 よく分からない。

 会社を辞めるまでの最後の二年ほどの記憶は、後から思い返してみるとまるでまどろみの中にいたかのように、ぼんやりとしている。

 いつのまにか季節と季節の区別がひどく曖昧に感じられるようになり、今日の出来事が昨日の出来事のように思え、時によっては、自分が明日やっているだろうことが映像のように眼前に見えたりした。仕事は変わらず忙しかったが、内容はもはやルーチンワークにすぎなかった。プロジェクトを終わらせるための見取り図があり、それに必要な時間はほとんど機械的に、費やす労働時間によって算出できた。速度の変わらない車列の中を、交通標識に従ってひたすらに進んでいくようなものだ。ハンドルもアクセルも、ほとんど何も考えなくても操作することができた。誰と会話する必要もない。

 そしていつのまにか、プログラミングや新しいテクノロジーやコンピュータそのものが、彼にとっては以前ほどの輝きを持つものではなくなっていた。でもまあそういうものなんだろうな、と彼は思う。少年時代にあれほど輝きに満ちていた星空が、いつのまにか見上げればただそこにあるものになっていたように。

 その一方で、彼に対する会社の評価はますます高まっていった。査定のたびに昇給が行われ、賞与の額は同期の誰よりも上だった。彼の生活はそれほど金のかかるものでもなかったしそもそも遣う時間もなかったから、通帳にはいつのまにか今まで目にしたことのないような額が貯まっていた。

 キーを叩く音だけが静かに響くオフィスの中で椅子に座り、打ち込んだコードがビルドされるのを待つ間、ぬるくなったコーヒーのカップを口につけたまま、不思議なものだな、と彼は思った。買いたいものなんて何もないのに、金だけは貯まっていくのだ。

 そういう話を冗談めかしてすると水野は笑ってくれたが、その後ですこしだけ悲しそうな顔をした。そんな水野の表情を見ていると、心のずっと深い場所を直接きゅっとにぎられたように、胸の奥がかすかに縮んだ。そしてわけもなく悲しくなった。

 それは秋の初めで、網戸からは涼しい風が吹き込んでいて、腰をおろしているフローリングの床がひんやりと心地よかった。彼はネクタイを外した濃いブルーのワイシャツ姿で、彼女は大きなポケットの付いた長いスカートに濃い茶色のセーターを着ていた。セーター越しの優しげな胸のふくらみを見ると、彼はまたすこしだけ悲しくなった。