その晩、彼女は夢を見た。
ずっと昔の夢。彼女も彼もまだ子どもだった。音もなく雪が降る静かな夜で、そこはいちめんの雪に覆われた広い田園で、人家の灯りはずっと遠くにまばらに見えるだけで、降り積もる新雪にはふたりの歩いてきた足跡しかなかった。
そこに一本だけ、大きな桜の樹が立っていた。それは周囲の闇よりもなお濃く暗く、空間に唐突に開いた深い穴のように見えた。ふたりはその前に立ちすくんだ。どこまでも暗い幹と枝と、その間からゆっくりと落ちてくる無数の雪を見つめながら、彼女はその先の人生を想っていた。
隣にいる、今まで彼女を支えてくれた大好きな男の子が遠くに行ってしまうことを、彼女はもう十分に覚悟し納得もしていた。数週間前に彼からの手紙で転校について聞かされた時から、それが意味することを繰り返し繰り返し、彼女は考えてきた。それでも。
それでも、隣に立っている彼の肩の高さを、その優しい気配を失ってしまうことを考えると、底知れぬ闇を覗き込んでしまった時のような不安と寂しさが、彼女を包んだ。それはもうずっと昔に過ぎ去ってしまった感情だったはずなのにと、夢を見ている彼女は思う。でもまるでできたての気持ちのように鮮やかに、それはここにある。──だから、この雪が桜であってくれればいいのにと、彼女は思った。
今が春であってくれればいいのに。私たちはふたりで無事にあの冬を越え春を迎えて、同じ町に住んでいて、いつもの帰り道にこうやって桜を見ている。今がそういう時間であってくれればいいのに、と。
ある夜、彼は部屋で本を読んでいた。
日付が変わる頃に床に就いたのだが上手く眠ることができず、諦めて床に積まれた本から適当な一冊を引っぱり出し、缶ビールを飲みながらの読書だった。
寒くて、静かな夜だった。BGM代わりにテレビをつけて、深夜放送の洋画を小さなボリュームで流した。半分開いたカーテンの向こうには、数え切れない街の灯りと降り続く雪が見えた。その日の昼過ぎから降り始めた雪は、時折雨に変わり、また雪に変わり、しかし日が沈んでからは雪は次第に粒の大きさを増し、そのうちに本格的な降雪となっていた。
読書に集中できないような気がして、彼はテレビを消した。すると今度は静かすぎた。終電は終わっていたし、車の音も風の音も聞こえず、壁を隔てた外界に降る雪の気配を、彼ははっきりと感じることができた。
ふいに、何かあたたかなものから守られているという、どこか懐かしい感覚が蘇った。そう感じた理由を考えているうちに、ずっと昔に見た冬の桜の樹のことを思い出した。
……あれは何年前だろう? 中学一年の終わりだったから、もう十五年も前だ。
眠気はいっこうに訪れる気配はなく、彼はため息をついて本を閉じ、缶の底に残ったビールをひとくちで飲んだ。
三週間前に五年近く勤めた会社を辞め、次の就職先のあてもなく、毎日を何をするでもなくぼんやりと過ごしている。それなのに、心はここ数年になく穏やかに凪いでいた。
……いったい俺はどうしてしまったんだろう、と彼は胸のうちで呟きながら炬燵から立ち上がり、壁に掛けてあるコートをはおり(その横にはまだスーツが掛けたままになっている)、玄関で靴を履きビニール傘を持って外に出た。傘にあたる雪のひそやかな音を聞きながら、近所のコンビニエンスストアまで五分ほどゆっくり歩いた。
牛乳や総菜を入れたカゴを足元に置き、マガジンラックの前ですこし迷ってから、彼は月刊のサイエンス誌を手に取ってぱらぱらと眺めた。高校生の頃は熱心に読んでいた雑誌で、手に取るのは数年ぶりだった。後退し続ける南極の氷の記事があり、銀河間の重力干渉の記事があり、新しい素粒子が発見されたという記事があり、ナノ粒子と自然環境との相互作用の記事があった。世界が今でも発見と冒険に満ちていることに軽い驚きを覚えながら、記事に目を滑らせる。
ふと、ずっと昔にもこんな気持ちになったことがあるという既視感にみまわれ、ひと呼吸のち、ああ、音楽だ、と気づいた。
店内の有線放送から、かつて──たぶん自分がまだ中学生だった頃に──繰り返し耳にしたヒットソングが流れていた。懐かしいメロディを聴きながらサイエンス誌に書かれた世界の断片を目で追ううちに、ずっと昔に忘れたと思っていた様々な感情が胸を撫であげるように湧きたち、それが通り過ぎた後もしばらくの間、心の表面はゆるやかに波立っていた。
店を出た後も、胸の内側がまだすこし熱かった。そこが心のありかだということを、とても久しぶりに感じているような気がする。
切れ間なく空から降りてくる雪を見ながら、それがやがて桜に変わる季節のことを、彼は想った。
2
遠野貴たか樹きは種子島の高校を卒業した後、大学進学のために上京した。通学に便利なように、池袋駅から徒歩で三十分ほどの場所に小さなアパートを借りて住んだ。彼は八歳から十三歳までを東京で過ごしたが、当時実家のあった世田谷区あたりしか記憶にはなく、それ以外の東京は知らない土地も同然だった。彼が思春期を過ごした小さな島の人々に比べ、東京の人々は粗野で無関心で言葉遣いは乱暴であるように彼には思えた。人々は路上に平気で痰を吐き、道端には煙草の吸い殻や細々としたゴミが無数に落ちていた。なぜ路上にペットボトルや雑誌やコンビニ弁当の容器が落ちていなければならないのか、彼にはわけが分からなかった。彼の覚えていた頃の東京はもっと穏やかで上品な街であったような気がした。
でもまあいい。
とにかくこれからここで生きていくんだ、と彼は思う。転校を二度経験し、新しい場所に自分を馴染ませる方法を彼は学んでいた。それにもう、自分は無力な子どもではない。ずっと昔、父親の転勤のために長野から東京に来た時に感じた強い不安を、今でもよく覚えていた。両親に手を引かれ、大宮から新宿へ向かう電車の中で見た景色は、今まで馴染んできた山間の風景とはまるで異なっていた。自分の住むべき場所ではないような気がした。しかし数年後、場所から拒絶されているというその感覚を、東京から種子島に転校した時にもやはり感じた。プロペラ機で島の小さな空港に降り立ち、父の運転する車から畑と草原と電柱しかない道を眺めた時、感じたのは東京への強烈な郷愁だった。
結局、どこでも同じなのだ。それに今度こそ、僕は自分の意志でここに来たのだ。まだ荷ほどきしていない段ボールが積み重なった小さな部屋で、窓の外に折り重なる東京の街並みを眺めながら、彼は思った。
四年間の大学生活について語るべきことはあまりないように、彼は思う。理学部の授業は忙しくかなりの時間を勉強に割かなければならなかったが、しかし必要な時間以外は大学へはあまり行かずに、アルバイトをしたりひとりで映画を観たり街を歩き回ったりすることに時間を閲けみした。大学に行くためにアパートを出た日も、状況が許せば時々大学を素通りし、池袋駅に向かう途中の小さな公園で本を読んで過ごした。公園を横切る人の数と多様さに最初のうちこそくらくらするような目眩を覚えはしたが、じきにそれにも慣れた。学校とアルバイト先に何人かの友人を得て、たいていの人間とは時間を経るうちに自然に交遊が途絶えたが、数すくない数人とはより親密な友人関係を築くことができた。自分や友人の部屋に二、三人で集まり、安い酒を飲み煙草を吸いながら夜を徹して様々なことを話した。四年かけていくつかの価値観がゆっくりと変化し、いくつかの価値観はより強固なものとなった。
大学一年の秋に恋人ができた。アルバイトを通じて知り合った、同じ歳の横浜の実家に住む女の子だった。
その頃、彼は大学生協で昼休みに弁当の売り子のアルバイトをしていた。なるべく学外にアルバイトを求めたいと思ってはいたが授業が忙しく、昼休みの時間をわずかながらも金銭に換えることのできる生協での仕事は都合が良かった。二時限目が十二時十分に終わると走って学食に向かい、倉庫から弁当の入ったカートを引っ張り出して売り場に運ぶ。売り子は彼を含めてふたりで、百個ほどの弁当はたいてい三十分程度で売り切れる。三時限目の始まるまでの残り十五分ほどで、売り子ふたりで学食のテーブルの隅に座って慌ただしく昼食を食べる。そういう仕事を三ヵ月ほど行った。その時の売り子のペアが、横浜の女の子だった。
彼にとって、彼女は初めて付きあった女性だった。実に様々なことを、彼は彼女から教えられた。今まで決して知らなかった喜びや苦しみが、彼女と過ごした日々にはあった。初めて寝たのもその子だった。人間とはこれほど多くの感情を──それは自分でコントロールできるものとできないものがあったが、できないものの方がずっと多かったし、嫉妬も愛情も決して彼の意志通りにはならなかった──抱えて生きているのだということを、彼は知った。
その子との付きあいは一年半ほど続いた。彼の知らない男が彼女に告白をしたことが、終わるきっかけだった。
「あたしは遠野くんのことが今でもすごく好きだけど、遠野くんはそれほどあたしを好きじゃないんだよ。そういうの分かっちゃうし、もう辛いの」そう言って、彼女は腕の中で泣いた。そんなことはない、と彼は言いたかったが、彼女にそう思わせてしまう自分に責任があるのだとも思った。だから諦めた。本当に心が痛む時は肉体まで強く痛むのだということを、初めて知った。
彼女について彼が今でも強く覚えているのは、まだ付きあうことになる前、弁当を売り終えて学食のテーブルに座りふたりで急いで昼食を食べている時の姿だ。彼はいつも賄いの弁当を食べたが、彼女は常に小さな手作りの弁当を家から持ってきていた。バイトのエプロン姿のまま、とても丁寧に最後の米一粒まできちんと噛みしめて食べていた。彼の弁当に比べると半分ほどの量しかなかったのに、食べ終わるのはいつも彼女が後だった。そのことを彼がからかうと、彼女は怒ったように言ったものだ。
「遠野くんこそもっとゆっくり食べなさいよ。もったいないじゃない」
それがふたりで過ごす学食での時間のことを指していたのだと気づいたのは、ずっと後になってからだった。
次に付きあうことになった女性とも、やはりアルバイトを通じて知り合った。大学三年の頃で、彼は塾講師のアシスタントのアルバイトをしていた。週に四日、彼は大学の授業が終わると池袋駅まで急ぎ、山手線で高田馬場まで行き、東西線に乗り換えて塾のある神楽坂に通った。そこは数学の講師がひとり、英語の講師がひとりの小さな塾で、アルバイトのアシスタントが彼を含めて五人いて、彼は数学講師のアシスタントだった。数学講師はまだ三十代半ばの若く人好きのする男で、都心に家と妻子を持ち気きっ風ぷが良く、仕事の面では非常に厳しくもあったが、確かに人気にそぐうだけの能力と魅力があった。その講師は大学受験のみに目的を絞り込んで矮小化された数学を実に効率的に生徒に叩き込んでいたが、しかし同時に、その先にあるはずの純粋数学の意味と魅力を時折、巧みに授業に織り込んでいた。その講義のアシスタントをすることで、大学で学んでいる解析学の理解が深まりさえした。講師もなぜか彼のことを気に入り、学生アシスタントの中で彼だけには名簿管理や採点などの雑用はやらせず、塾テキストの草案作成や入試問題の傾向分析などの基幹業務の多くを任せた。また彼も能力の及ぶ限りそれに応えた。やりがいのある仕事で、給料も悪くなかった。
その女性は学生アシスタントのひとりで、早稲田の学生だった。そして彼の周囲にいる女性の中で抜きんでて美しかった。美しく長い髪で瞳が驚くくらい大きく、背はさほど高くはないが抜群にスタイルが良く、女の子というよりは、動物として美しいと彼は思った。精悍な鹿とか、高空を飛ぶ鳥のような。
当然のように人気のある子で、生徒も講師もアルバイトの学生たちも機会を見つけては頻繁に彼女に話しかけていたが、彼は最初からなんとなく彼女を敬遠してしまっていた(──観賞用としては良いけれど、気軽に会話するには彼女はちょっと非現実的に美しすぎる)。しかしだからこそなのか、彼はそのうちに彼女のある種の傾向──極端な言い方をすれば、歪みのようなものに気づくことになった。
彼女は誰かから話しかけられれば実に魅力的な笑顔でそれに応えるが、必要がある時以外は決して自分から人に話しかけることがなかった。そして周囲の人間は彼女のその孤独な振る舞いにはまったく気づかずに、それどころかとても愛想の良い女性だとさえ思っているようだった。
「美人なのにそれを鼻にかけない謙虚で気さくな人」というのが彼女に対する周囲の評判で、彼はそれを不思議に思ったが、かといってそれを訂正して回る気にもならなかったし、その態度なり錯誤なりの理由を知りたいとも特に思わなかった。彼女が人と交わりたくないと思っているのならば、そうすればいいのだ。いろいろな人間がいるんだなと素朴に思ったし、それに誰だってたぶん、程度の差こそあれどこか歪んでいるのだ。それからあまり面倒なことに首を突っ込みたくないとも、彼は思っていた。
しかしその日、彼は彼女に話しかけざるを得なかった。十二月、クリスマス直前の寒い日だった。その日は数学講師が急用があるとかで帰宅してしまい、彼と彼女がふたりだけで塾に残りテキストの準備をすることになった。彼女の様子がおかしいと気づいたのは、ふたりだけになってから一時間近くも経ってからだ。問題作成に集中していた彼は、ふと奇妙な気配に気づき、顔を上げた。すると向かいの席に座っていた彼女がうつむいたまま小刻みに震えていた。瞳は手元の紙に向かって大きく見開いていたが、そこを見ていないのは明らかだった。額にびっしりと汗をかいていた。彼は驚いて声をかけたが、返事がないので立ち上がって彼女の肩を揺すった。
「ねえ、坂口さん! どうしたの、大丈夫?」
「……すり」
「え?」
「くすり。飲むから、飲みもの」と、奇妙に平坦な声で彼女は言った。彼は慌てて部屋を出て、塾の廊下に設置されていた自動販売機でお茶を買い、プルタブを開けて彼女に差し出した。彼女は震える手で足元のバッグから錠剤のシートを取り出して、「みっつ」と言う。彼は黄色い小さな錠剤を三つシートから剥がし、彼女の口に差し入れ、お茶を飲ませた。指先に触れた彼女のつややかな唇が驚くくらい熱かった。
彼とその女性が付きあったのは三ヵ月ほどの短い間だった。それでも、決して忘れることのできない深い傷のようなものを、彼女は彼に残した。そしてその傷は、きっと彼女にも残ってしまったのだろうと彼は思う。あれほど急激に誰かを好きになってしまったことも、同じ相手をあれほど深く憎んでしまったことも、初めてだった。お互いにどうすればもっと愛してもらえるのかだけを必死に考える二ヵ月があり、どうすれば相手を決定的に傷つけることができるのかだけを考えた一ヵ月があった。信じられないような幸せと恍惚の日々の後に、誰にも相談できないような酷い日々が続いた。決して口にしてはいけなかった言葉をお互いに投げつけた。
──でも。不思議なものだなと、彼は思う。あれほどのことがあったはずなのに、彼女の姿で最も記憶に残っているのは、やはりまだふたりが付きあう前の十二月のあの日だ。
あの冬の日、薬を飲んでしばらくすると、彼女の顔は目に見えて生気を取り戻していった。その様子を彼は息を呑んで、とても不思議で貴い現象を目にするように眺めた。まるで世界に一房しかない、誰も目にしたことのない花が開くさまを見ているようだった。ずっと昔に、同じように世界の秘密の瞬間を目にしたことがあったような気がした。このような存在をもう二度と失ってはならないと、強く思った。彼女が数学講師と付きあっていようと、そんなことはまるで関係がなかった。
彼が遅い就職活動を始めたのは、大学四年の夏だった。彼女と三月に別れてから人前に出る気持ちになるまでに、結果的にそれだけかかった。親切な指導教授の熱心な働きかけもあって、秋にはなんとか就職が決まった。それが本当に自分のやりたい仕事か、やるべき仕事かどうかは皆目分からなかったが、それでも働く必要があった。研究者として大学に残るよりも、違う世界を目にしてみたかった。もう十分、同じ場所に留まったのだから。
大学の卒業式を終え、荷物を段ボールに詰めたせいでがらんとした部屋に戻った。東に面した台所の小さな窓の向こうには、古い木造の建物の奥に夕日に染まったサンシャインの高層ビルがそびえていた。南に面した窓からは、雑居ビルの隙間に新宿の高層ビル群が小さく見える。それらの二百メートルを超える建築物は、時間帯や天候によって様々な表情を見せた。山脈の峰に最初に日の出が訪れるように、高層ビルは朝日の最初の光を反射して輝いたし、しけった海に見える遠くの岸壁のように、ビルたちは雨の日の大気に淡く姿を滲ませた。そういう景色を彼は四年間、様々な想いとともに眺めてきた。
窓の外にはやがて闇が降りはじめ、地上の街は無数の光を灯して誇らしげに輝き出す。段ボールの上に置かれた灰皿を引き寄せ、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。畳にあぐらをかいて座り、煙を吐き出しながら、厚い大気を通じてチラチラと瞬く光の群れを見つめる。
自分はこの街で生きていくのだと、彼は思った。
3
彼が就職したのは、三鷹にある中堅のソフトウェア開発企業だった。SEと呼ばれる職種だ。配属されたのはモバイルソリューションの部署で、通信キャリアや端末メーカーが主なクライアントで、彼は小さなチームで携帯電話をはじめとする携帯情報端末のソフトウェア開発を担当した。
仕事に就いてみて初めて分かったことだが、プログラマという仕事は彼にはとても向いていた。それは孤独で忍耐と集中力を必要とする仕事だったが、費やした労力は決して裏切られることがなかった。記述したコードが思惑通り動かない時は、原因はいつでも疑いなく自分自身にあるのだ。思索と内省を積み重ね、確実に動作する何か──何千行にも及ぶコード──を創りだすことは、今までにない喜びを彼に与えた。仕事は忙しく、帰宅はほとんど例外なく深夜で、休日は月に五日もあれば良い方だったが、それでもコンピュータの前に何時間座っていても彼は飽きなかった。白を基調とした清潔なオフィスの、パーティションで区切られた自分だけのスペースで、来る日も来る日も彼はキーボードを叩いた。
それがこの職種によくあることなのか、それとも彼の就職した会社がたまたまそうだったのかは分からないが、社員同士の仕事以外での交流はほとんどなかった。仕事が終わってから飲みに行くような習慣はどのチームにもなかったし、昼食はそれぞれが自分の座席でコンビニ弁当を食べていたし、出社時と退社時の互いの挨拶さえなく、会議の時間は最小限で必要なやりとりのほとんどは社内メールだった。広いオフィスには常にキーボードを叩くカタカタという音だけが満ちていて、フロアに百人以上いるはずの人間の気配は限りなく希薄だった。最初は大学での人間関係とのあまりの違いに戸惑ったが──あの頃の誰かとの関係はつまるところ際限のない無駄話だったし、理由もないのに皆よく酒を飲んでいた──、すぐにそのような寡黙な環境にも慣れた。それに彼はもともと口数の多い方でもなかった。
仕事を終えると、彼は三鷹駅から終電間近の中央線に乗り、新宿で降りて中野坂上にある小さなマンションの一室まで帰った。どうしようもなく疲れている時にはタクシーを使ったが、たいていは三十分ほどの距離を歩いた。その部屋には大学卒業後に引っ越してきていた。会社のある三鷹の方が家賃の相場は安かったが、あまり会社に近すぎる住まいには抵抗があったし、何よりも池袋のアパートから小さく見えていた西新宿の高層ビル群に、あの眺めに、もっと近づいてみたいという気持ちが強かった。
だからかもしれない。彼が一日の中で最も好きな時間は、電車で荻窪あたりを過ぎた頃、窓の向こうに西新宿の高層ビルが姿を現し、それが徐々に近づいてくるさまを眺めている時だ。東京行きの最終電車はぽつりぽつりと空席がある程度にすいていて、スーツに包まれた体には一日の労働の疲れと充実感が心地よく満ちている。雑居ビルの向こうに小さく見え隠れしていた高層ビルをじっと見つめていると、それはガタン、ガタンという電車の振動とともにやがて際立った存在として視界に立ち上がってくる。東京の夜空はいつでも奇妙に明るく、ビルは空を背に黒々としたシルエットだ。こんな時間にも、人が働いていることを示す黄色い窓の光が美しく灯っている。赤く点滅する航空障害灯は、まるで呼吸をしているよう。自分は今でも遠く美しい何かに向かって進んでいるのだと、それを見つめつつ彼は思うことができた。そういう時は、心の奥がすこし震えた。
そしてまた朝が来て、彼は会社に向かう。社屋のエントランスにある自動販売機で缶コーヒーを一本買い、タイムカードを押して、自分の席に座ってコンピュータの電源を入れる。OSが起動する間に缶コーヒーを飲みながら一日の作業予定を確認する。マウスを動かして必要なプログラムのいくつかを立ち上げ、指をキーボードのホームポジションに乗せる。目的に辿りつくためのアルゴリズムをいくつか考え、検討し、APIを叩き、プロシージャを組み立てる。マウスカーソルもエディタのキャレットも、自分の肉体にぴったりとよりそっている。APIの先にあるOS、その先にあるミドルウェア、そしてその先にあるはずの、シリコンのかたまりであるハードウェアの動作について、非現実的な電子の振る舞いについて、思いを馳せる。
そのようにプログラムに熟練していくほどに、彼はコンピュータそのものについても畏敬の念を抱くこととなった。すべての半導体技術を支える量子論への漠然とした知識はあったが、あらためて職業として日常的にコンピュータに接しそれを動作させることに慣れるほどに、自分の手にした道具の信じられないほどの複雑さ、それを可能にした人の所業に思いを馳せないわけにはいかなかった。それはほとんど神秘的だとさえ、彼は思った。宇宙を記述するために生まれた相対性理論があり、ナノスケールの振る舞いを記述する量子論があり、そしてそれらは来るべき大統一理論なり超弦理論なりでいつか統合されるのかもしれないと考えた時、コンピュータを扱うということ自体が何か世界の秘密に触れる行為であるかのように思えた。そしてその世界の秘密には、もうずっと昔に過ぎ去ってしまった夢や想い、好きだった場所や放課後に聴いた音楽、特別だった女の子との叶えることのできなかった約束、そういったものに繋がる通路が隠されているような──はっきりとした理由はないのだけれど、そんな気がした。だから何か大切なものを取り戻そうとするかのようなある種の切実さを持って、彼は仕事に深くのめり込んでいった。まるで孤独な演奏者が楽器と深く対話するように、彼はキーボードを静かに叩き続けた。
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