明里との約束の当日は、朝から雨だった。空はまるでぴったりと蓋がかぶされたように灰色一色に覆われていて、そこから細く冷たい雨の粒がまっすぐに地上に降り注いでいた。近づきつつある春がまるで心変わりをして引き返してしまったような、真冬の匂いのする日だった。僕は学生服の上に濃い茶色のダッフルコートをはおり、明里への手紙を学生鞄の奥にしまってから学校に向かった。帰りは深夜になる予定だったので、親には帰りが遅くなるけれど心配しないでくださいという手紙を残した。僕と明里は親が知り合い同士というわけではないし、あらかじめ事情を話しても許してもらえないと思ったからだ。

 その日一日の授業を、僕は窓の外を眺めながら落ち着かない気持ちで過ごした。授業の内容はまるで頭に入ってこなかった。たぶん制服を着ているはずの明里の姿を想像し、交わされるだろう会話を想像し、心地よい明里の声を思い浮かべた。そうだ、あの頃はきちんと意識はしていなかったけれど、僕は明里の声が大好きだったんだとあらためて思った。明里の声の空気の震わせかたが、僕は好きだった。それは僕の耳をいつでも優しく柔らかく刺激した。もうすぐその声が聞けるのだ。そんなことを考えていると体中が熱く火照り、僕はそのたびに気持ちを落ち着けるために窓の外の雨を眺めた。

 雨。

 秒速五メートルだ。教室から眺める外の景色は日中なのに薄暗く、ビルやマンションの窓の多くには電灯が灯っていた。ずっと遠くに見えるマンションの踊り場の蛍光灯が消えかかっていて、チカチカと時折瞬いていた。僕が眺めている間にも雨粒は次第に大きさを増し、やがて一日の授業が終わる頃には、雨は雪になった。

 放課後、周囲のクラスメイトがいなくなったのを確認し、僕は鞄から手紙とメモを取り出した。手紙はすこし迷ってコートのポケットに入れた。それはどうしても明里に渡しておきたい手紙だったから、いつでも指先に触れていた方が安心するような気がしたのだ。メモの方は電車の乗り換えルートや乗車時間をまとめたもので、僕はもう何十回目かになる確認をもう一度行った。

 まず、豪徳寺駅を午後三時五十四分発の小田急線で新宿駅に行く。そこから埼京線に乗り換え大宮駅まで行き、宇都宮線に乗り換え、小山駅まで。そこからさらに両毛線に乗り換え、目的の岩舟駅には六時四十五分着だ。明里とは岩舟駅で夜七時に待ち合わせているので、これでちょうど良い時間に到着できるはずだった。ひとりだけでこれだけ長い電車での移動をするのは初めての経験だったが、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。大丈夫、難しいことは何もないはずだ。

 薄暗い学校の階段を駆け下り、玄関で靴を履き替えるために靴箱を開ける。鉄の蓋を開けるガチャンという音が誰もいない玄関ホールに大きく響き、それだけですこし鼓動が早くなってしまう。朝持ってきた傘は置いていくことにして、玄関を出て空を見上げる。朝は雨の匂いだった空気がきちんと雪の匂いに変わっている。雨のそれよりももっと透明で鋭くて、心がすこしざわめく匂いだ。灰色の空から無数の白い欠片かけらが舞い降りていて、じっと見ていると空に吸い込まれそうになる。僕は慌ててフードをかぶり、駅に走った。

*  *  *

 新宿駅にひとりで来たのは初めてだった。僕の生活圏からはほとんど馴染みのない駅だったが、そういえば何ヵ月か前にクラスメイトの友人と映画を観に新宿まで来たことがあった。その時は友人とふたりで小田急線で新宿駅まで来て、JRの東口改札から地上に出るのにさんざん迷ってしまったのだ。映画の内容よりもこの駅の複雑さと混雑さの方がずっと強く印象に残っていた。

 小田急線の改札を出て、迷わないように立ち止まり慎重に案内板を探し、「JR線きっぷ売り場」と書かれている方向に向かって早足で歩いた。柱が立ち並ぶ巨大な空間の向こうに何十台もの券売機が並んだスペースがあり、すいていそうな列に並んで切符を買う順番を待つ。目の前のOL風の女の人からはかすかに香水の甘い匂いがして、なぜか胸が切ないような苦しいような気持ちになる。隣の列が動くと今度は横にいる年配の男性のコートからツンとするナフタリンの匂いがして、その匂いは僕に引っ越しの時の漠然とした不安を思い起こさせる。大量の人間の声の固まりがわーんという低い響きになって地下の空間を満たしている。雪に濡れた靴先がすこし冷たい。頭がすこしくらくらする。自分が切符を買う番になり、券売機にボタンがないことに戸惑ってしまう(その頃はまだほとんどの駅の券売機がボタン式だったのだ)。隣を盗み見て、画面に直接指を触れて目的のキップを選べば良いのだと分かる。

 自動改札を抜けて駅の構内に入り、視界の果てまで並ぶいくつもの乗り場案内板を注意深く見ながら、人波を縫うようにして埼京線乗り場を目指した。〈山手線外回り〉、〈総武線中野方面行き〉、〈山手線内回り〉、〈総武線千葉方面行き〉、〈中央線快速〉、〈中央本線特急〉……。いくつもの乗り場を通り過ぎ、途中、駅構内案内図を見つけ立ち止まりじっと眺めた。埼京線乗り場はいちばん奥だ。ポケットからメモを取り出して、腕時計(中学入学祝いに買ってもらった黒いGショック)の時間と見比べる。新宿駅発四時二十六分。腕時計のデジタル数字は四時十五分を示している。大丈夫、まだ十分間に合う。

 構内でトイレを見つけ、念のため入った。埼京線には四十分間くらい乗ることになるから、用を足しておいた方がいいかもしれないと思ったのだ。手を洗う時に鏡に映った自分を見た。汚れた鏡面の向こうに、白っぽい蛍光灯の光に照らされた自分の姿が映っている。この半年で背も伸びたし、僕はすこしは大人っぽくなったはずだ。寒さからか高揚からか、頬がすこし赤くなっていることを恥ずかしく思う。僕は、これから、明里に会うんだ。

 埼京線の車内は帰宅する人々で混み始めていて、座席に座ることはできなかった。僕は他の何人かに倣ならって最後尾の壁によりかかり、吊り広告の週刊誌の見出しを眺め、窓の外を眺め、時折乗客の姿を盗み見た。視線も気持ちも落ち着かず、鞄に入っているSF小説を取り出して読む気にもなれなかった。座席に座った高校生の女の子と、その子の目の前に立っている友人らしき女の子との会話がきれぎれに聞こえてくる。ふたりとも短いスカートからすらりとしたはだかの脚を出し、ルーズソックスを履いている。

「この前の男の子、どうだった?」

「誰?」

「ほら北高の」

「えー、趣味悪くない?」

「そんなことないよ。私は好みだなあ」

 たぶんコンパか何かで知り合った男の子の話だろうと思う。自分のことを話されているわけでもないのに僕はなぜかすこし恥ずかしくなる。コートのポケットの中で指先に触れている手紙の感触を確かめながら、窓の外に目を向ける。電車はさっきから高架橋の上を走っている。初めて乗る路線だった。普段乗る小田急線とは揺れ方や走る音が微妙に違って、それが知らない場所に向かっているという不安な気持ちを強くさせる。冬の弱い夕日が地平線の空を薄いオレンジに色づけていて、地上は視界のずっと彼方までびっしりと建物が並んでいる。雪はまだずっと降り続いている。もう東京ではなく埼玉に入っているのだろうか。見知っている風景よりも、街はずっと均一に見える。中くらいの高さのビルとマンションばかりが地上を埋めている。

 途中の武蔵浦和という駅で、快速電車の待ち合わせのために電車は停車した。「大宮までお急ぎのお客さまは向かいのホームでお乗り換えください」と車内放送が告げ、乗客の半分くらいがどやどやと電車を降りてホームの向かい側に並び始め、僕もその最後尾についた。何十本もの鉄道架線と、降りしきる雪の厚い層を挟んだ西の低い空に、たまたまの雲の切れ間から小さな夕日が顔を出していて、その光を受けて夕日の下の何百もの屋根の群れが淡く光っている。その風景を眺めながら、僕はずっと昔にこの場所に来たことがある、とふいに思い出した。

 そうだ、これは初めて乗る路線ではなかった。

 小学三年生にあがる直前、長野から東京に引っ越してくる時に、僕は両親とともに大宮駅からこの電車に乗って新宿駅に向かったのだ。見慣れた長野の田園風景とはまるで異なるこの風景を、僕は電車の窓から激しい不安を抱きながら眺めていた。見わたすかぎり建物だけのこの風景の中で僕はこれから暮らすのだと思うと、不安で涙が出そうになった。それでもあれから五年の月日が経ち、僕はひとまずここまでは生き抜いてこれたのだと思った。僕はまだ十三歳だったけれど、大袈裟ではなくそう思った。明里が僕を助けてくれたのだ。そして明里にとっても同じであって欲しいと、僕は祈った。

 大宮駅もまた、新宿駅ほどの規模ではないにせよ巨大なターミナル駅だった。埼京線を降りて長い階段を昇り、駅の人混みの中を乗り換えの宇都宮線のホームに向かった。構内はさらに雪の匂いが濃く強くなっていて、行き交う人々の靴は雪の水を吸ってぐっしょりと濡れていた。宇都宮線のホームも帰宅の人々で溢れていて、電車のドア位置になる場所には人々の長い列ができていた。僕は人の列とは離れた場所にひとりで立って電車を待った。行列に並んでもどうせまた座れないのだ。──そこで初めて、僕は嫌な予感がした。構内アナウンスのせいだと気づくまで一瞬の間があいた。

「お客さまにお知らせいたします。宇都宮線、小山・宇都宮方面行き列車は、ただいま雪のため到着が八分ほど遅れています」とアナウンスが告げていた。

 その瞬間まで、僕はなぜか電車が遅れるなんていう可能性を考えもしなかったのだ。メモと腕時計を見比べてみる。メモでは五時四分の電車に乗るはずが、もう五時十分だった。急に寒さが増したような気がして、身震いがした。二分後にプァァーン……という長く響く警笛とともに電車の光が差し込んできた時も、寒気は治まらなかった。

*  *  *

 宇都宮線の中は、小田急線よりも埼京線よりも混み合っていた。皆そろそろ一日の仕事なり勉強なりを終え、家に帰っていく時間なのだ。車輌は今日乗ってきた他の電車に比べるとずっと古く、座席は四人掛けのボックス席で、それは長野にいた頃に地元を走っていたローカル線を思い出させた。僕は片手で座席に付いている握りをつかみ、片手をコートのポケットに入れ、座席に挟まれた通路に立っていた。車内は暖房が効いていて暖かく、窓は曇り四隅にはびっしりと水滴が張り付いていた。人々はぐったりと疲れたように一様に無口で、その姿は蛍光灯に照らされた古い車輌にしっくりと馴染んでいるように見えた。僕だけがこの場所に相応しくないように思えて、すこしでもその違和感がなくなるようにと僕はできるだけ息を潜め、じっと窓の外を流れる景色を眺めていた。

 風景からはすっかり建物がすくなくなり、どこまでも広がる田園は完全に雪に染まっていた。ずっと遠くの闇の中に人家の灯りがまばらに瞬いているのが見えた。赤く明滅するランプのついた巨大な鉄塔が、遠方の山の峰まで等間隔に並んでいた。その黒く巨大なシルエットは、まるで雪原に整列した不穏な巨人の兵士のように見えた。ここはもう完全に、僕の知らない世界なのだ。そのような風景を眺めながら、考えるのは明里との待ち合わせ時間のことだった。もし約束の時間に僕が遅れてしまったとしたら、僕にはそれを明里に知らせる手段がなかった。当時は中学生が持つほどには携帯電話は普及していなかったし、僕は明里の引っ越し先の電話番号を知らなかった。窓の外の雪はますます勢いを増していった。

 次の乗り換えとなる小山駅に着くまでの間、本来なら一時間のところを電車はじりじりと遅れながら走った。駅と駅との間の距離は都内の路線からは信じられないくらい遠く離れていて、ひと駅ごとに電車は信じられないくらい長い時間停車した。そのたびに、車内にはいつも同じアナウンスが流れた。「お客さまにお断りとお詫び申し上げます。後続列車遅延のため、この列車は当駅にてしばらくの間停車いたします。お急ぎのところたいへんご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちください……」

 僕は何度もなんども繰り返し時計を見て、まだ七時にならないようにと強く祈り、それでも距離が縮まらないままに時間だけが確実に経っていき、そのたびに何か見えない力で締め付けられるように全身がどくどくと鈍く痛んだ。まるで僕の周囲に目に見えない空気の檻があり、それがだんだん狭まってくるような気分だった。

 待ち合わせに間に合わないのは、もう確実だった。

 とうとう約束の七時になった時、電車はまだ小山駅にさえ着くことができずに、小山駅から二つ手前の野木という駅に停車していた。明里の待つ岩舟駅は、小山駅で乗り換えてからさらに電車で二十分かかる距離なのだ。大宮駅を出てから車中でのこの二時間、どうにもならない焦りと絶望で、僕の気持ちはびりびりと張り詰め続けていた。これほど長く辛い時間を、今までの人生で経験したことがなかった。今の車内が寒いのか暑いのか、もうよく分からなかった。感じるのは車輌に漂う深い夜の匂いと、昼食以降何も食べていないことによる空腹だった。気づけば車内はいつの間にか人もまばらで、立っているのは僕ひとりだけだった。僕は近くの誰も座っていないボックス席にどさりと腰を下ろした。途端に足がジンと鈍く痺れ、体の深いところから全身の皮膚に疲れが湧き出てきた。体中に不自然に力が入っていて、それを上手く抜くことができなかった。僕はコートのポケットから明里への手紙を取り出して、じっと眺めた。約束の時間を過ぎて、きっと明里は今頃不安になり始めている。明里との最後の電話を思い出す。どうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

 野木駅にはそれからたっぷり十五分ほども停車して、電車はふたたび動き始めた。

*  *  *

 電車がようやく小山駅に着いたのは、七時四十分を過ぎた頃だった。電車を降りて、乗り換えとなる両毛線のホームまで走った。役に立たなくなったメモは丸めてホームのゴミ箱に捨てた。

 小山駅は建物ばかり大きかったが、人はまばらだった。構内を走り過ぎる時、待合い広場のような場所にストーブを中心に何人かが椅子に座り込んでいるのが見えた。これから家族が車で迎えに来たりするのだろうか。やはり彼らはこの風景に自然に溶け込んでいるように見えた。僕だけが焦燥に駆られている。

 両毛線のホームは、階段を下りて地下通路のような場所をくぐり抜けたその先にあった。地面は飾り気のない剥きだしのコンクリートで、太いコンクリートの四角い柱が等間隔に並び、天井には何本ものパイプが絡み合って伸びていた。柱を挟んだホームの両側は吹き抜けになっていて、オォォォという吹雪の低い唸りが空間を満たしている。青白い蛍光灯の光が、このトンネルのようにぽっかりあいた空間をぼんやりと照らしていた。キオスクのシャッターは固く閉じられている。まるで見当違いの場所に迷い込んでしまったような気持ちになったが、きちんと何人かの乗客がホームで電車を待っていた。小さな立ち食いそば屋と二つ並んだ自動販売機の黄色っぽい光だけはいくぶん暖かそうに見えたが、全体としてはとても冷えびえとした場所だった。

「ただいま両毛線は雪のため、大幅な遅れをもって運転しております。お客さまにはたいへんご迷惑をおかけいたしております。列車到着まで今しばらくお待ちください」という無表情なアナウンスがホームに反響していた。僕はすこしでも寒さを防ぐためにコートのフードを頭にかぶり、風をよけるようにコンクリートの柱にもたれてじっと電車が来るのを待った。コンクリートの足元から鋭い冷気が全身に這い上がってきていた。明里を待たせている焦りと体温を奪い続ける寒さと刺すような空腹とで、僕の身体は硬くこわばっていく。そば屋のカウンターに、ふたりのサラリーマンが立ってそばを食べているのが見えた。そばを食べようかと思い、でも明里も空腹を抱えて僕を待っているのかもしれないと考え、僕だけが食事を摂るわけにはいかないと思い直した。せめて温かい缶コーヒーを飲むことにして、自動販売機の前まで歩いた。コートのポケットから財布を取り出そうとした時に、明里に渡すための手紙がこぼれ落ちた。

 今にして思えば、あの出来事がなかったとしても、それでも手紙を明里に渡すことにしていたかどうかは分からない。どちらにしてもいろいろな結果は変わらなかったんじゃないかとも思う。僕たちの人生は嫌になるくらい膨大な出来事の集積であり、あの手紙はその中でのたった一つの要素に過すぎないからだ。結局のところ、どのような強い想いも長い時間軸の中でゆっくりと変わっていくのだ。手紙を渡せたにせよ、渡せなかったにせよ。

 財布を取り出す時にポケットからこぼれ出た手紙は、その瞬間の強風に吹き飛ばされ、あっという間にホームを抜けて夜の闇に消えた。そのとたん、僕はほとんど泣き出しそうになってしまった。反射的にその場でうつむいて歯を食いしばり、とにかく涙をこらえた。缶コーヒーは買わなかった。

*  *  *

 結局、僕の乗った両毛線は、目的地への中間あたりで完全に停車してしまった。「降雪によるダイヤの乱れのため停車いたします」と車内アナウンスが告げていた。「お急ぎのところたいへん恐縮ですが、現在のところ復旧の目処は立っておりません」と。窓の外はどこまでもひろがる暗い雪の広野だった。吹きつける吹雪の音が窓枠をかたかたと揺らし続けていた。なぜこのような何もない場所で停車しなければならないのか、僕にはわけが分からなかった。腕時計を見ると、待ち合わせの時間からはすでにたっぷり二時間が過ぎていた。今日一日で、僕は何百回この時計を見ただろう。刻み続ける時間をこれ以上見るのが嫌で、僕は時計を外して窓際に据え付けられた小さなテーブルに置いた。僕にはもうどうしようもなかった。とにかく電車が早く動き始めてくれることを祈るしかなかった。

 ──貴樹くんお元気ですか、と、明里は手紙に書いていた。「部活で朝が早いので、この手紙は電車で書いています」と。

 手紙から想像する明里は、なぜかいつもひとりだった。そして結局は僕も同じようにひとりだったのだ、と僕は思う。学校には何人もの友人がいたけれど、今このように、フードで顔を隠し誰もいない車輌の座席にひとりで座り込んでいる僕が、本当の僕の姿だったのだ。電車の中は暖房が効いていたはずだけれど、乗客がまばらのたった四両編成のこの車輌の中は、とてつもなく寒々しい空間だった。どう表現すればいいのだろう──、こんなにも酷い時間を、僕はそれまで経験したことがなかった。広いボックス席に座ったまま、僕は体をきつく丸めて歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように、悪意の固まりのような時間に必死に耐えているしかなかった。明里がひとりだけで寒い駅の構内で僕を待ち続けていると思うと、彼女の心細さを想像すると、僕は気が狂いそうだった。明里がもう待っていなければいいのに、家に帰っていてくれればいいのにと、僕は強くつよく願った。

 でも明里はきっと待っているだろう。

 僕にはそれが分かったし、その確信が僕をどうしようもなく悲しく、苦しくさせた。窓の外は、いつまでもいつまでも雪が降り続けていた。

 電車がふたたび動き始めたのは二時間以上が経過した頃で、僕が岩舟駅に着いたのは約束よりも四時間以上経った夜の十一時過ぎだった。当時の僕にとってそれは完全に深夜の時間だ。電車のドアからホームに降りた時に靴が新雪に深く埋まり、ぎゅっという柔らかな雪の音がした。もうすっかり風は止んでいて、空からは無数の雪の粒がゆっくりと、垂直に音もなく落ち続けていた。降車したホームの脇には壁も柵もなく、ホームのすぐ横から見渡すかぎりの雪原が広がっている。街の灯りは遠くすくない。あたりはしんとしていて、停車した電車のエンジン音しか聞こえなかった。

 小さな陸橋を渡って、改札までゆっくりと歩いた。陸橋からは駅前の町が見えた。家の灯りは数えられるくらいしか灯っておらず、町はただ黙々と雪に降りこめられつつあった。改札で駅員に切符を渡し、木造の駅舎の中に入った。改札のすぐ奥が待合室になっていて、足を踏み入れたとたんに暖かな空気と石油ストーブの懐かしい匂いが身体を包んだ。目の前の光景に胸の奥から熱い固まりが込みあげてきて、なんとかそれをやり過ごすためにきつく目をつむった。──ふたたびゆっくりと目を開く。ひとりの少女が石油ストーブの前の椅子にうつむいたまま座っていた。

 白いコートに包まれたほっそりとしたその少女は、はじめ知らない人のように見えた。ゆっくりと近づき、あかり、と声をかけた。僕の声は知らない誰かのもののようにかすれていた。彼女はすこし驚いたようにゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。明里だった。大きな両目には涙がたまり、目尻は赤くなっている。一年前よりも大人っぽくなった明里の顔は、ストーブの黄色い光を滑らかに映し、僕が今まで見たどんな女の子よりも美しく見えた。心臓を指で直接そっと触れられたような、言葉にできない疼きが走った。それは僕が初めて知る感覚だった。目をそらせなかった。明里の目にたまった涙の粒がみるみる大きくなっていくのを、僕は何かとても貴い現象を見るように眺めていた。明里の手が僕のコートの裾をぎゅっとつかみ、僕は明里の方に一歩ぶん引き寄せられた。僕の裾をにぎりしめた明里の白い手に涙の粒が落ちるのを見た瞬間、こらえられない感情の固まりがふたたび湧きあがってきて、気づいたら泣いていた。石油ストーブの上に置かれたたらいのお湯がくつくつと沸く優しげな音が、狭い駅舎に小さく響いていた。

*  *  *

 明里は保温ポットに入ったお茶と手作りのお弁当を持ってきてくれていた。僕たちはストーブの前の椅子に並んで座り、真ん中にお弁当の包みを置いた。僕は明里からもらったお茶を飲んだ。お茶はまだ十分に熱く、とても香ばしい味がした。

「おいしい」と、僕は心の底から言った。

「そう? 普通のほうじ茶だよ」

「ほうじ茶? 初めて飲んだ」

「うそ! ぜったい飲んだことあるよ!」と明里に言われたけれど、僕はこんなにおいしいお茶は本当に初めてだと思ったのだ。「そうかなぁ……」と答えると、